二谷視点の三人称と、押尾の一人称で交互に物語は進む。デザイン系会社のある出来事が描かれている。この小説の中の世界は、この会社の中だけなので、わかりやすい作品である。
これでもかというほど、心理描写が重ねられる。人間の心の中を描き出した作品。二谷の三人称だけでは、その他の心理が描ききれないし、また、二谷自身のことも描ききれない。ゆえに視点を分けているのか。
最初、三人称と一人称が交互に現れることに違和感を感じたが、二つの視点を、二つの三人称で書くよりも、三人称は二谷、一人称は押尾、と分けられていてわかりやすいとも考えられる。
もちろん、それだけではない。二谷は少しサイコパスなので、サイコパスを一人称で描くことはできない。サイコパスに正当性を与えなければならず、正当性を持ったサイコパスはもはやサイコパスではないからである。あくまで、三人称を使って客観的にらりり具合を書かないと面白くない。
以下ネタバレ注意
二谷は同僚の芦川と付き合う。同じく同僚の押尾は二谷のことが好きで、余計に芦川のことが気に入らない。しかし、芦川は典型的な良い人で、皆から好かれている。
二谷はサイコなので芦川のことが好きなのか嫌いなのかよくわからない。二谷と押尾は仕事のできない芦川にいたずらしてやろう、ということになる。
しかし、二人が示し合わせていたずらをするのではなく、それぞれが勝手に嫌がらせをする。
この作品の見どころは人間の裏と表、本音と建前、がわかりやすく描かれているところだと思う。
具体的には、お菓子作りが得意な芦川が職場のみんなにケーキやらタルトを作って持ってくるのである。二谷はみんなが見ている場合は「美味しい、すごい、うますぎる」などと言いながら食べる。しかし、その場で食べずに残業後に食べようと取っておき、みんなが先に帰ると、ぐちゃぐちゃに潰して捨ててしまうのだ。
二谷は別に甘いものが嫌いというわけではないらしい。しかも、ただ捨てるだけではなく、ぐちゃぐちゃに潰して捨てるのだ。その理由は書かれていないので、色々と想像を膨らますことができる。(だからこそ三人称にする必要があった)
ただ、「うまい」「美味しい」「すごい」などと人を褒めていても、それはおべっかであり本心ではない場合は多々ある。特にお菓子を作って持ってきてくれたら、美味しいと言って食べる以外の選択肢はない。
だから、お菓子を捨てるのは二谷だけではなく、他にも捨てている人物がいることも描かれている。小説に奥行きが与えられている。
周りの人間の裏と表が描かれれば描かれるほど、表しか描かれない芦川の裏が気になる。表しかない芦川が不気味に見えてくる。すべてを見透かして表を演じているようにも感じられる。そこは読者が想像して味わう構造となっている。
どうやってこの話をまとめるのかと心配しながら読んだが、終わりかたがまたいい。勝ち負けはないのであろうが、一応、弱者と描かれていた芦川が勝利して、社会性に優っていると思われていた押尾が敗北する幕引き。二谷は転勤という形で引き分け、延長戦なのだろうか。余韻が与えられている。
久しぶりにいい小説作品を読んだ。小説、かくあるべし、とまでは言わないが、思考を揺さぶられる興味深い作品であった。
本当は深い作品なのであるが、同時に通り一遍読めてしまう作品でもあるので、単純と評価されてしまう恐れがある。この作品が受賞するかどうか、わたしが審査員を審査しようじゃないか。