昨年末に宮台氏は襲撃された。犯人が自殺したため動機は不明である。そこでわたしなりの考察をしてみた。
最近、宮台氏の言説が変わっているように思うのはわたしだけではないだろう。けつ舐め宮台ファンは気付かないだろうが、一昔前の宮台氏はもっと「価値」を語っていた。価値であり、美学であり、保守主義であり、主意主義であり、神の目線を語っていた。
なのに、最近は主知主義、効率主義、合理主義、経済成長、損得勘定、安全安心便利快適の方に傾いている。効率主義の批判を効率主義で行い、合理主義の批判を合理主義で行い、損得勘定の批判を損得勘定で行っているのだ。犯人がどう考えていたかは知らないが、ひとつの可能性として、宮台氏のこの変節が許せなかったのではないか、などと想像してみた。
わたしはかれこれマル激を20年近く見続けている。全く変わらない神保氏とちがって、宮台氏は5年に一度くらいの割合で新しい思想を入れてきて、それにともない自身の言説が変わってくる。
しかし、今回の変節はいただけない。
例を挙げると第1162回のマル激である。内容は、日本の介護事業が貧弱であるということ。前半は介護・福祉の充実を訴えている。ヤングケアラー、若者ケアラーへの支援。介護費の増額などなど。
しかし、後半では人々の繋がりが薄れたことを嘆いている。鎌田慧の自動車絶望工場の例を出し、自動車絶望工場時代と加藤智大(秋葉原通り魔事件)を比較して、自動車絶望工場で働いていた若者より、加藤の方が経済的には遥かに恵まれていた。しかし、連帯や繋がりがないために、加藤の方が不幸であった、などと述べている。
自動車絶望工場時代の若者たちには働く目的があった。故郷に仕送りをする、幼い兄弟の面倒を見る、年老いた父母を支える、などの具体的な対象があり、目的があった。自分が支えなければならないという存在意義があった。
この話は前半と矛盾する。では、彼らの目的や存在意義を奪ったのはなにか。社会の連帯を切り刻んだものは何か。福祉はないか。福祉であり、介護保険であり、社会保障であり、就学援助であり、保育園や特養の整備であり、行政の様々な支援ではないか。
介護を充実させて子供が親の面倒を見る必要のない社会を産み出せば、かろうじて繋がっている家族の連帯も見事に消滅するであろう。
後半の36分12秒あたりで、ゲストの結城氏が自身の理想的な政策を掲げて「リベラル一本でまとまっても選挙では勝てない。なんでなんだろうなぁ、と思う」と不思議がっているのだが、不思議でも何でもない。行政が社会を合理的に便利にすることに、国民は反対しているからである。安全安心便利快適を宮台氏や結城氏ほど求めていないのである。さらに言えば、その合理的社会に愛を感じないからである。
宮台氏は子ども手当に反対するものの例を出す。彼は自分が子供を作らないので、他人の子供たちに自分の税金が使われるのが許せない、という。対して宮台氏は、社会がまともであることが重要で、その方が回り回ってその者の得になる、という理屈を出す。
前半の37分あたりでも、メンタリストDAIGOの例を出し、今の若者は自分の得になるのだったらお金を出す。しかし、ゆくゆくあなたのためになる、と説得しても、ゆくゆくがわからない、から金を出さないという。
しかし、この理屈だと、結局、得、であるから子供手当が必要で、子育て政策が必要で、少子化対策が必要である、という政府と同じ理屈ではないか。
子供が大切だという理屈は、損得を超えた所にあるのではないのか? 社会保障のために子供が必要なのか? 経済成長のために子供が必要なのか? 子々孫々のために子供が必要なのか?
子々孫々などというと一件公共的に聞こえるが、その内容が富国強兵であり、経済発展であり、社会保障であったならば、今だけ金だけ自分だけ精神がほんの少し広がっただけで本質は同じなのではないだろうか。
昔の宮台氏は、フーコーの美学や武士道や三島を例に出して、「日本が滅びる? 人類が滅びる? だからどうした」と言い切っていたではないか。
社会保障には美学が欠落しているのである。執行草舟的に言えば愛が欠落しているのである。
愛というのをわたし的に解釈すると、愛情とか優しさとか思いやりというより、人間のもつ根源的な真善美と言える。我々の存在意義であり、宇宙の存在意義である。宮台氏はそれを「価値」と表現していたのではないのか。子々孫々に安定した社会保障を提供して親の介護をする必要のない社会が「価値」なのだろうか。そうではないはずだ。
宮台氏は前半39分のコミニュタリアンの説明で、「コミニュタリアンは地域や子々孫々のことを考える、考えるという敢えてすることをするまでもなく自動的に考えてしまう」と述べている。
この説明は違う。自動的に考えているわけではないのだ。精神の構造がそのようにできているのである。しかし、宮台氏のような主知主義者からみると、短期的には非合理な選択を長期的に合理的であると考えているかのように見えてしまうのである。だから、「自動的に考える」という奇怪な表現になってしまう。
宮台氏はクリスチャンなので分かるはずである。キリスト者の愛は、自動的に考えた後の愛ではないということを。
子供が大切だと思うのは愛であり、将来の社会保障のためでもなければ、生産力のためでもなければ、子々孫々のためでもないのである。
結局、宮台氏含め現在のリベラルは、富国強兵が経済成長になり、経済成長が社会保障に変わっただけなのだ。富国強兵、経済成長、社会保障の行き着く先は、今だけ金だけ自分だけの世の中である。
今回の結城氏との対談でもそうで、神保氏との会話でもそうなのであるが、宮台氏は結城氏や神保氏のようにリベラルに吹っ切れないところに悲哀がある。もちろん、右にも吹っ切れない。
後半8分くらいから孤独死の話題をしているが、今の社会、社会の役に立たせようなどというのは、とどのつまり誰かの、今だけ金だけ自分だけ、の欲望の充足のために働かされるだけである。そんな愛のない社会から抜けようとするものを咎めることなど出来ようか。
結婚しないのも、子供を作らないのも、中抜き中抜き末端二割も、愛がないが故ではないか。結城氏が掲げる理想的政策に国民が反応しないのは、その政策に「愛」がないからである。
宮台氏は安倍憎しのせいか主知主義に陥ってしまったのではないだろうか。昔の計算合理性を超越して価値を語っていた頃の宮台氏に戻ってくれることを望む。