なぜ、映画を早送りで観るのか。
ふと思いついた理由が、宮台氏をはじめとする映画評論家の存在である。
宮台氏の映画批評は好きで、よく参考にさせてもらっている。
宮台氏の批評が典型的だと思うが、映画の内容と社会の現象をシンクロして語る。映画を社会のメタファーに使って、社会の表層にはあらわれない深部を抉っていく。そういう評論が多い。
わたしもよく小説の感想で、その小説の同時代性を、つまり今の社会を反映しているか、という視点を用いるが、あまりそれに拘りすぎると、ほかの部分を見失ってしまう。
映画や小説の価値というのは世評の批判や反映だけではない。もっと深い部分。魂に訴えかける部分。本質的な部分。
映像の美しさ、文章の美しさ、などなど、作品は視聴者、読者によってそれぞれが価値を見いだし解釈される。
しかし、批評やレビューが簡単に手に入る環境になってしまい、作品よりも先に、批評やレビューが入ってしまう。それも多量に。
つまり、視聴者は批評に書かれたことを見るために映画を観る、という逆転現象が起こっているのではないだろうか。
批評の確認のための視聴であれば、早送りで観るのも納得できる。
われわれは作品を手にするときに、多かれ少なかれ批評やレビューを参考にする。だが、その批評やレビューに振り回されないように、注意しなければいけない。