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なぜ欧米でワクチン非接種者排除がまかり通るのか 哲学的思考 マルクス・ガブリエル 世界史の針が巻き戻るとき を読んだ

 

 

ドイツ人哲学者ということだ。

 

新しい実在論がなんだかはよくわからなかったが、欧米がコロナで狂っている理由はなんとなくわかった。

 

連中の基本的な考え方は排中律だ。

 

排中律形式論理学の用語。 あるものについて,その肯定と否定とがある場合,一方が真ならば他方は偽,他方が真ならば一方は偽であり,その両方のどちらでもない中間的第三者は認められないという論理法則。

 

これは理論と言うより、彼らの精神ではなかろうか。故に、熾烈な差別が存在する。同性愛を認めるか認めないか。黒人の権利、女性の権利。などなど。

 

同性愛者を認めないとなると、熾烈な差別が怒り、認めるとなると徹底的にレイシストを排斥する。

 

日本のように、まぁ適当にやってくれよ、とか、知らなかったことにする、という精神のゆとりが連中には存在しない。

 

ワクチンも同じである。ひとたびワクチンを真と認めれば、偽という主張は許されない。人権なんて吹っ飛んで、接種義務化に邁進するのである。

 

この単純な思考形態は戦争には強いかも知れない。

 

民主主義は民主的に消滅させることができるというパラドクスがある。

 

「我々は何人たりとも排除しない」

 これもパラドクスである。

「我々」のなかに「誰かの排除を目的にする者」がいる場合、上記のテーゼはなりたたない。

 

このパラドクスを解消するために排除を二段階に分ける。一段階目の排除は、黒人だから、女性だから、排除するという排除。この排除は禁止する。二段階目は、黒人だから、女性だから排除しようとする者たちの排除。この排除は行ってよい。

 

ワクチンも同じだ。ワクチン接種が真であり善である。ワクチン非接種は偽であり悪である。故にワクチン非接種の排除を行うことは真であり善である。

 

われわれ日本人からすると、なんとも薄気味悪い思想である。もし、日本で「我々は何人たりとも排除しない」という理念を掲げ、「我々」のなかに「誰かの排除を目的にする者」がいる場合、「話し合いで解決しようとする」のではなかろうか。妥協点を見いだそうとするのではないだろうか。

 

はっきり申し上げて、排中律的思考で社会を作るというのは劣った思考である。単純で幼稚な思考である。

 

こんな排中律的思考、思想、精神にわれわれ日本人は毒されてはいけない。日本には欧米的な人種差別、LGBT差別はない。

 

だが、欧米人からみて、差別は「有る」か「無い」のどちらかなのだ。日本の女性の年収が低ければ、そこに差別は「有る」のである。

 

それが彼らの思考形態である。

 

引き寄せて結べば草の庵にて解くればもとの野原なりけり

 

排中律ではこの歌を理解出来ないだろう。おそらく、欧米人は草か庵かそのどちらかしか理解出来ない。もしくは、庵を建設中の草、みたないとらえ方をするだろう。

 

哲学はナーガセーナの時代よりも後退してしまったのではないだろうか。

 

先日オーストリアで「玉金に鈎十字のタトゥーを入れて禁固19ヶ月の実刑

酔った勢いで睾丸に鉤十字のタトゥーを彫った軍人に19ヵ月の実刑判決 | 若気の至りでは済まされない愚行 | クーリエ・ジャポン

 

という事件があった。オーストリアにはナチス禁止法という法律があり、ナチスを肯定することは違法行為なのである。

 

思想家の千坂恭二氏は「カント、ヘーゲルフッサールハイデガーと続いたドイツを中心とした哲学が戦後振るわなくなり、サルトルフーコー、デリタ、ラカンとフランスに移ったのは、ナチスを絶対悪として思考停止に陥ったためではないか」というようなことを述べている。

 

ナチス=絶対悪的な思考が、反ワクチン=絶対悪、と用いられてしまっている。

 

欧米では反ワクチンの人々も排中律を用いているのだから、この戦いは勝つか負けるか、そのどちらかだろう。

 

日本の曖昧性、妥協性が今回のワクチン騒動では吉と出ている。

 

日本に「曖昧性、妥協性は悪である」という排中律がはびこらないように注意しなければなるまい。