最近特に若者のファッションが欧米のハイブランドから離れているような気がする。
東京に行くと相変わらず中国人を始め外国人が大勢居る。皆着ているものはシャツ、パンツ、コート、と所謂洋服であるが、中国人は中国人のファッション、日本人は日本人のファッション、欧米人は欧米人のファッションと微妙な違いが現れている。
とくに若者である。最近はインターネットで買うのだろうか、一昔前のユニクロ、イオン、と比べて種類が豊富なのではないだろうか。
ファッションは言うまでもなく、個性の発露であるので、選択肢が多ければそれだけ細分化される。
逆に、われわれおじさん世代は西欧ハイブランドのものを好む、というか、西欧ハイブランドのものが良いと考えている。先日、二人の友人と食事をしたのであるが、わたしを含め三人ともラコポロだった。三人の胸に緑色のワニが付いているとなんか小っ恥ずかしい。他のポロシャツを着ていった方がよかったかも知れない。
でもラコポロはいい。なんとなくいい。安心感がある。
と言っても今の若者には理解出来ないだろうし、する必要もないだろう。
結局、所謂洋服が世界を席巻しているが、その洋服はその土地土地の文化により変わっていく。自明の理である。
としたときに、不変のクラッシックというものがなり立つのか、はなはだ疑問である。近年はウルトラクールビズなどと、フォーマルが崩壊しつつある。もっとも、このフォーマルの崩壊は西欧的価値の崩壊と、服飾はより機能的な方向へ推移するという宿命を孕んでいるので致し方ない。また、服飾は身分を示す作用があるが、身分を示すこと自体が忌避される時代に於いて、従前のフォーマルの衰退はもはや必須であろう。
たとえば、江戸時代。みんなが着物を着ていた。着物を着るという一般性がある中でこそ、「粋な着物、粋な着付け」という表現が可能だっただろうが、現代のように周囲が洋服を着ていて、みんなが着物なんか着たことがないなかで、どんなに「粋な着物、粋な着付け」をしても、それは趣味の世界であり、社会という文脈のなかでの、「粋な着物、粋な着付け」にはならない。
着物の喩えがわかりにくいなら、どんなに素晴らしい十二単を纏っても、平安時代のようには理解出来ないのと同じである。ルイ十四世の格好で渋谷を歩けば、ただのハロウィンである。
十二単やルイ十四世がコスプレであるように、いまのスーツスタイルもいずれコスプレになるだろう。
わたしが死ぬまでにクラシックスーツスタイルがコスプレにならないことを祈る。