九州福岡が舞台。いや、正確な舞台は九州福岡にあるとある一軒家が舞台。
タツコの家には二人の姪がやってきて、その姪の子どももやってくる。
タツコは高齢者である。姪の子どもが社会人ということからしても、姪も50代だと考えられる。
九州地方の方言がこれでもかと繰り広げられる。博多弁っぽいが、博多周辺の方言にはいろいろなバリエーションがあるらしく、わたしにはよく分からないが、どぎつい方言であることは間違いない。
老婆×方言というと、二年ほど前の芥川賞のおらおらを想起させる。
おらおらは結構どぎつい話であったが、ラッコの家はのほほんとしたいわゆる「やおい」小説っぽい感じだ。
面白い試みだと思ったのは、予備知識が予備知識として読者に提示されないこと。
よく電車などで、隣の人の会話を聞いていると、最初はなんの話をしているのか分からないが、聞いているうちに、なんとなく背景とかストーリーとかが朧ながら見えてくる、あの感覚に近い。
年寄りがそうなのかはわからないが、読んでいて年寄りらしいと感じる点は、姪との会話の合間に突如白昼夢が展開されるところである。まるで、タツコの脳の中にいるような感覚を読んでいて受ける。
しかし、会話の括弧なし。改行もなし。方言入り乱れ、白昼夢が展開され、しかも最大5人同時に現れる。解読するのに偉く難儀する小説である。
↓この息つく暇も無い限界まで文字が詰め込まれた紙面をご覧じよ。こんなページが続くのである。
本作品は方言が多用されているわけであるが、改めて方言の面白みの一つとして気がついたのは、文語調に似ていると言うことである。P158の下段、タツコの祖父の台詞は以下のようなものである。
「きにかかってしなれんつたぃ、タツコの、苦労するとのおもえば、おりんごてとしよりなれば、きのかかって、なさけなかつぞ?」
文語調っぽくないだろうか。この文語的響が、文語的雅さを失った口語文に潤いを与えている。おらおらとはまた違った方言の表現である。
タイトルの「ラッコの家」であるが、主人公のタツコはタッコの相性で呼ばれている。姪は娘にラインを送るにあたり音声入力を用いている。「タッコのいえにおるよ」と送ったつもりだったが、音声認識が「タッコ」を「ラッコ」と認識して送ってしまったのである。
こう言った日常の極めて些細な起伏が、この作品全体にわたって繰り広げられている。
芥川賞も、受賞作を決めた後に全文掲載するんじゃなくて、候補作品が全文掲載された雑誌を売ればみんな読むんではなかろうか。そもそも、バックナンバーなんて図書館にしかないわけで、これを探して借りてきて読むのは結構大変。トリッパーなんかないし。
そうやって、市民目線を入れたら盛り上がるか。
とここまで書いたところで、盛り上がるかも知れないが、駄目になるだろうな、と思った。やはり、芸術に市民目線を入れてはいけない。一般人を呻らせる作品を是非とも選んで戴きたいものである。
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