人生に懸案事項はつきものである。三日くらい、心も体もなにものにも囚われることなく、本を読んだり、東京をブラブラしたりと自由な休暇を過ごしたい、といつも思う。
が、その三日後にどうせなにか控えていて、心が解放されることはない。おそらく、死ぬまで、心はなにかに囚われ続けるのだろう。
人生とはかならず周囲に面倒が起き、生活環境に一人は目も合わせたくない奴がいて、嫌々ながらも関わりをもたなければならない。
そういったものから解放されたいものだ、と誰もが感じているだろう。自分も解放されたい。しかし、どうせ解放されないのなら、諦観と言おうか、悟りと言おうか、受け入れてむしろ自己の糧とした方が有意義ではあるまいか。
自己の糧というのは抽象的な表現だ。具体的表現ならば、小説のネタにでもしてやろうということ。だとすると、ここでまた小説が売れないと、ストレスが積み重なるが、それは自分の問題である。はて、周囲によって引き起こされる心の囚われが、自分の問題ではないと言い切れるだろうか。
愚か者は、悩む価値のないもの、悩んでも仕方がないもの、について悩む。人生の性のようなものは、悩んでも仕方がないものの筆頭だろう。なかなか愚か者を脱し得ない。