わたしは群像で読んだ。
小砂川氏は第167回にもノミネートされている。家庭用安心坑夫はなかなか面白かった。
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ぶっちゃけ、前回の方が何倍も面白かった。
猿の戴冠式は難しい。私が読めていないせいかも知れないが無駄に難しいと感じてしまった。
最初はシネノという動物園の猿の視点で語られる物語だと思った。シネノは動物園に毎日来る女性、しふみと出会う。
しかし、蓋を開けてみれば、しふみが勝手にシネノの中に入り込んで妄想していただけという。
はたして、このギミックは効果的と言えるのだろうか?
後半、もうそのギミックがばれているにもかかわらず、しふみは妄想をやめない。挙げ句、映画監督のようになってシネノを動かす。
一体何を読まされているのか訳が分からない。
主人公のしふみは競歩の選手らしいが、大会中にチョンボをやって、ネットでバッシングをされ続けている。
この作品もアイスネルワイゼンと同じく、独身女性の苦悩にカテゴライズされる。そんなことを言えば、東京都同情塔もそうなのであるが、苦悩の次元が違うのである。
この作品も、アイスネルワイゼンも、苦悩の起因がセルフイメージに対するものなのだ。エゴ故の苦悩なのである。はっきり言って一個人のエゴや見栄など、いまさら文学として表現しうるものなのだろうか?
エゴや見栄でも、それが社会問題や政治や哲学、美学、心理、宗教、などと絡んでいればともかく、徹頭徹尾一個人のエゴ、自己中心的エゴなのだ。それとも、現代は徹頭徹尾一個人のエゴが問題となる時代なのだろうか?
難しい、難解、なのは悪いことではないが、簡単なことを難解にする意味があるのだろうか。一体主人公はなぜ猿(ボノボであるが)とリンクしなければならなかったのか。わたしが読み切れていないだけだろうか。
ただ、文章が上手いので、文章の上手さだけがいやに目立つのだ。