落合先生の「こだわりの服装術」のなかで以下のようなくだりがある。
アルベルト・メローラ(高級手袋&ネクタイ店のオーナー)とイタリアの高級レストランに落合さんが行くのだが、その時メローラの着ていたスーツが芯地の硬いイタリア製らしからぬ既製服だった。落合さんは、「そのスーツはこのレストランには似合わない。50オンスのメローラのネクタイにも似合わない」と指摘する。
最初はいくら落合先生とはいえ、イタリア人にイタリアファッションについて指導するのはいささか滑稽ではないか、と思った。
が、よくよく考えてみると、我々はそれほど考えて服を着ていない。それは、おそらくイタリア人も同じで、全てのイタリア人が服装にそれほどの造詣をもっているとは限らない。メローラは手袋とネクタイについては専門家だが、スーツに関しては落合先生のほうが詳しいだろう。
アメリカ人だからwindowsに詳しいとは限らない。ドイツ人なら誰でもライカについて語れるわけではない。今や洋服とはPCやカメラなどと同じで、発祥の国を問わずグローバルになったものではなかろうか。だからこそ、イタリア人にスーツを説くことはおかしなことではない。
例えば、我々がなにかの機会に和服を着ることがあるとする。その時、和服研究家のイタリア人から着付けの注意を受けることがあっても、我々は自分が日本人だという理由だけで、自らの着付けの正当性を主張できないであろう。
なにが言いたいかというと、我々はグローバル化したスーツ、ジャケット、トラウザーズについて、西洋人と同等、いや、それ以上に語ることが可能であるということである。裏を返せば、洋装は所詮西洋人の装いである、などとして無関心を装うことは許されぬ時代を生きているということだ。