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年賀状の製作が楽になる一方で失われるもの

毎年親の年賀状を作らされている。

適当な素材を見つけてきて、貼り付ける。謹賀新年。令和6年元旦。旧年中はお世話になりました。等の文言も貼り付ける。

 

宛名面は登録してある住所録で刷る。

 

ほぼほぼダイレクトメールである。

 

親は私が刷り上げた年賀状に、今年もよろしくお願いします、とか、また逢いましょう、とか書いているが、もらった方からすれば、その年賀状が本当に自分に宛てられたものなのか、疑ってしまうのではなかろうか。

 

仮に親が宛名面を見ないで、すべての宛先に、「今年もよろしくお願いします」と書いて出したとしても、なり立ってしまう。こんなもの、もらって嬉しいものだろうか?

 

わたしも何枚か両面印刷で、手では何も書いていない年賀状をもらうことがあるが、DM以外の何ものにも思えない。今年もよろしくお願いします。くらい書いてあったとしても、どうせ全員に書いているのだろうと捻くれた見方をしている。

 

パソコンの普及で30年前に比べると年賀状の作成は相当楽になった。素材はネットにいくらでも落っこちているし、宛名印刷も一度登録してしまえば、ボタンひとつだ。

 

では、作製が楽になって年賀状は増えただろうか? 逆に減っただろう。SNS、人口減少、など様々な要因があるだろうが、ひとつの要員として作製が楽になったから、という逆説があるのではなかろうか。

 

それなりに苦労して作るものだから、もらっても価値があった。クリックひとつでプリンターから吐き出される年賀状などもらっても、嬉しくもクソもない。だから最近「年賀状じまい」なるものが届く。

 

楽なのは良いが、樂故に失うものがあることを忘れてはいけない。

 

なので、わたしはせめて宛名を手書きにするようにしている。

 

今回もタイトルをAIに作ってもらったが、実に正鵠を得たタイトルである。こういう楽をしていると、徐々にタイトルを作る力を失うだろう。さてさて、人間はどこまで堕落するやら。