YAHOOニュースに不動丸と貨物船が衝突、という記事がのっていたが、この記事を読んで、「ああ、不動丸、動かなかったんだな」と思ったのはわたしだけではないはずである。
お不動さんを信仰しているのかどうか知らないが、舟とか自動車とか飛行機に「不動」という名前をつけるセンスはいかがなものかと思ってしまった。
話が逸れた。
なぜわたしがあやしい彼女を見ることになったかというと、シコふんじゃったのなかで、悲しくてやりきれないが流れる。それが心に残って、Youtubeなどで調べて聞いていたのだ。
ちなみに、この曲は「この世界の片隅で」でも聞いていたはずなのだが、そのときは何とも思わなかった。
で、悲しくてやりきれない、を調べると「あやしい彼女」で多部さんが歌っているのが出てくる。それをクリックしたせいかどうか分からないのだが、Amazonでやたらに「あやしい彼女」が出てくるようになった。
全然見る気はなかったのだが、ちょっと再生して、飛ばし飛ばし観ていたら意外に面白くて、最後まで観てしまった。
見た目は美少女、中身はおばあさん、といった、ぶっちゃけよくあるコンセプトである。
昭和初期全開のおばあちゃんが現代の若者に喝をいれるというもの。
ただ、この映画には逡巡がみられる。
最初は、良人に先立たれて女で一つで子育てと生活に追われて、好きなことが出来なかった婆さんが若返って人生をやり直そう、というノリなのだが、途中で婆さんの人生はやり直さなければならないほど酷いものだったのか? という疑問がおそらく脚本を書いている人間に浮かんだのではないだろうか。
たしかに、今の時代から振り返れば、洗濯機も冷蔵庫も車も社会保障も未整備な昭和初期は、婆さんの暮らしは楽ではなかっただろう。だが、それを否定するのは傲慢で有り不遜であることに気がついたのではなかろうか?
最近の格差社会批判では、年収500万未満、四大学未満、は格差の社会の犠牲者、哀れむべき存在、すくい上げなければならない存在、のような、不遜きわまりない言説がなされることがある。
この格差批判連中に言わせれば、江戸時代以前の農民などは奴隷そのもので存在そのものが悲哀でしかない。
だが、そんなふうに、先人達の生活を同情の目で眺めることじたいが、傲慢であり不遜であり、見下すことであり、思い上がりでしかないことに気がついていないのである。
格差批判が余裕のある裕福な人間にだけウケて、その対象となる低所得、低学歴の人々にウケないのはそこである。
この婆さんも最後はしっかり自分の人生を肯定する。見所である。
韓国版も出ているのでどうなっているか観てみたいとおもう。なんと中国版もベトナム版もあるらしい。