もちろん原題は違う。ヘブライ語? なのでよく分からないが「良い死」という意味らしい。
ジャケットと中身が違いすぎる。煽り文と中身が違いすぎる。
このサイトも映画の中身とはかけ離れている。
さて、がっつりネタバレ有りで書く。ネタバレしたところで、観る人の解釈によりいかようにも観られるので、その点は安心していい。
この作品は尊厳死を扱ったものだ。ケヴォーキアン博士事件を調べてもらえばわかるが、それと同じことをしている。ケヴォーキアン博士の作った自殺幇助装置を作り、病で苦しむ人、痴呆で苦しむ人がそれぞれ自死を選ぶその過程や、周囲の感情が克明に描かれる。
老人ホームで暮らす夫婦が主人公。夫の方が自殺幇助装置をつくり、苦しむ友人たちに貸し出す。妻はそれを殺人であると激しく咎める。
自殺幇助装置はボタンを押すとまず麻酔が流れ、意識を失ったところで劇薬が流れて死亡するという構造。ボタンを押すのは自殺者本人。もちろん意識もはっきりしていて、「病気で苦しむよりもわたしは死を選びます」と宣誓し周囲に別れの挨拶をすまし、そしてボタンを押して死ぬ。
最初は夫が自殺幇助賛成で、妻は反対だった。が、この妻は痴呆症で、その症状が徐々に悪化してくる。妻は自分が自分でなくなることを怖れて、自殺幇助装置を使おうとするが、夫は大反対して幇助装置を破壊してしまう。
ここが面白い。夫の最初の信念は自殺幇助は人助け、であったにもかかわらず、いざ妻が使おうとすると使わせない。この矛盾がこの作品の見所の一つだ。
生きることと死ぬことは人間に課せられた大きなテーマだ。そして、自殺は生きることと死ぬこと両方に跨がるテーマなのだ。生きるという選択肢の中で死を選択するのは、事故死や老衰とは違う意味がある。
この作品では、闘病生活に疲れて、どうせ余命幾ばくもないので死ぬ、という死と、痴呆によって自分が誰だかわからなくなるから死ぬ、という二つの自殺が扱われている。
この二つは一見同じように見えるが、わたしは別物だと思って興味深く観た。自分が誰だかわからなくなったとしても、そこには、誰だかわからない誰かが存在するわけで、それを消すというのは「自分」のエゴである。
夫はひょっとしたら、そのエゴにこそ反発したのではなかろうか。もし、妻がその他のような病苦の状態だったら、あっさり装置を使うのではなかろうか。つまり、妻にとっては痴呆によって自分が失われると感じるが、夫からみれば痴呆の妻もまた妻であるという解釈がなりたつ。
ハッピーエンドやコメディを想像してみてはいけない。ド鬱な映画である。しかし、おすすめする。
わたしの自殺を題材にした作品はこれ↓