中世まで、人々は神と共に生きてきた。しかし、近代化により計算可能な目的合理性が神の領分を侵してきた。だがそれで、人々は満足したであろうか? 結局、目的合理性を追求したところで、目的合理性自身がそもそも存在しなかった。つまりは、目的合理性という名を騙った「神」を盲信していたに過ぎない。
宗教を非科学的だとして見下してきた時代は終わるだろう。これからは、リフレクティブな宗教、再帰的宗教と付き合う時代となる。
時計の価値の投稿で書いたが、「価値はモノソノモノにあるのではなく、人々の心の中にある」この定義はあらゆるものに当てはまる。時計や万年筆や靴といった物質的なもののみならず、神や宗教や音楽といった非物質的なものにも。
音楽は実に分かりやすい。大人達が眉をひそめるような、反社会的でへたくそな歌にものすごい人気が出たりする。婦女子は卒倒するし、信者は真に受けて窓ガラスを壊したりする。
これなどは、大人と子供で価値の尺度がことなる好例と思われる。AKBも好きな人は好きであるが、そうでない人は興味を示さない。
時計も、靴も、スーツも同じだ。フランクミューラーだ、ジョンロブだ、ゼニアだと言ったところで興味のない人にとっては何の有難味もない。
我々はリベラリズムを推し進め、多様な価値観を認めた結果、社会的統一を失いつつある。そこでは、個人の自由が最大限尊重され、社会的な統一的価値、すなわち、神や道徳が阻害されてきた。近代以降推し進められてきたのは権利の拡大である。拡大した権利に対して各個人はそれを許容する代わりに己の権利を要求した。先鋭化した権利が縦横に踊り狂う。
そのような世の中で最後に残る社会の共通価値は貨幣以外にはあり得ないだろう。世界がグローバル化して、民主化とリベラル化が進めば、世界が貨幣という共通の価値で均される。リベラリズムは多様な価値を認めた結果、既存の価値を破壊して、唯一貨幣へと価値の合併を行うものだ。
その貨幣信仰に抗うには、再帰的な宗教信仰、時計や靴と言った偶像信仰を行わざるを得ないのではなかろうか。
諸賢は偶像信仰には金がかかると言うだろう。金がかかればそれは貨幣信仰と変わらぬ。換金性が高い偶像も貨幣と同じだ。
では換金性のない偶像とは何だろうか? ひとつは売れないアイドル。そして、もう一つがRORAXだ。IS国は地球規模の売れないアイドルだ。
フランスのテロは西欧社会、リベラリズムによる価値破壊の結果による貨幣信仰に対する抗議である。わたしはRORAXも同様に、リベラリズムによる価値破壊の結果による貨幣信仰に対する抗議であると心得る。この方向性を見失った唾棄すべきリベラリズムに異を唱えるならば、諸賢RORAXを嵌めよ!