文学・文具・文化 趣味に死す!

小説家 星香典(ほしよしのり)のブログ。小説、映画、ファッション(メンズフォーマル)、政治、人間関係、食い物、酒、文具、ただの趣味をひたすら毎日更新し続けるだけのブログ。 

丸劇の年末ライブに久しぶりに参加した

22日はもう帰ったのが遅かったので書けないし、23日は上皇誕生日に因んだ天皇ネタを書いていたし、ということで、24日になってしまった。

 

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むかし、新宿のロフトプラスワンでやってた頃いったことがあった。今回はそれ以来なので相当久しぶりだ。

 

今回のライブ、ほとんど最初から最後まで違和感が走り回ってた。最後に神保氏が、「マル劇クオリティ的にこれ放送に値しますかね?」と宮台氏に尋ねる。

 

宮台氏も「値しません」とは言えないので、なんとなく褒めていた。

 

わたしは違和感の謎を帰りの電車の中ずっと考えていた。そして気がついた。宮台氏と神保氏の考えがかみ合っていないのだ。かみ合わないまま話しだけがどんどん進んでいくので、妙な違和感が残ったのだ。

 

ではどうかみ合っていないのか。

 

宮台氏は人間を、立派な人間と浅ましい人間(人間もどき・クズ)に分ける。そして、立派な人間のコミュニティを作ることを提唱し、社会という荒野を「立派な人間コミュニティ」の仲間と共に生きることを提唱する。

 

立派な人間というのは損得勘定を抜きにして正しい行動を行える人間のことを言う。しかし、ここで神保氏のマタイ伝25章問題が出てくる。

 

神保氏に言わせるとマタイ伝25章はもっともキリスト教徒が大切にしていることだという。曰く「最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」

 

最も小さき者というのは宮台氏の言ういわゆる「クズ」である。神保さん的には「クズを救わなくて良いの?」と言いたいのではないだろうか。

 

宮台氏は「クズやろうなどどうなろうがしったこっちゃない」という立ち位置。しかし、クズを見捨てる人間は果たして立派な人間と言えるのであろうか? 宮台氏の基準でも、「立派な人間とは損得勘定なく振る舞える人間である」という。

 

それなのに、「立派な人間だけを相手にして、クズがどうなろうが知らん」これはすでに損得勘定が行われているのではないだろうか。

 

宮台氏の愛は無限の愛、無償の愛ではないのである。損得勘定の上の愛なのである。宮台氏はこの辺にどのような整合性を見出しているのだろうか。来年のライブの質疑で聞いてみるかな。