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女系天皇容認論と否容認論について

今日は上皇陛下のお誕生日である。謹んでお慶び申し上げる。ちなみに、文化の日みどりの日、のような祝日は上皇の権威付けにつながるので設けないらしい。

 

さて、目出度き日にする話しではないかもしれぬが、最近、まとまって女系天皇容認論と否容認論を聞いたのでその感想。

 

まず、女系天皇論が出てきた背景は、皇嗣の数が少なすぎて、男系男子だけでは皇室の存続が危ぶまれる。という認識からである。ちなみに今はお三方しかおられない。1位=秋篠宮殿下、2位=悠仁親王殿下、3位=常陸宮殿下。常陸宮様は御年84歳であられる。

 

側室OK、などの議論もあるが、後宮5000人、どころか、後宮2人でもちょっと時代にそぐわないので、こういった極端な論を除くと、二つにしぼられると思う。

 

その1。女性宮家の創設。愛子様などが皇室にとどまり、民間人の旦那を迎えて、その子どもが天皇になる。いわゆる女系天皇である。ちなみに、愛子様自身が天皇になる分には、皇極とか持統とかと同じなので問題ない(皇室典範ではNG)。問題とされているのは、愛子様と民間人の子どもが天皇になることである。

 

その2。旧宮家の復活である。1947年にGHQの指導で11宮家が皇籍離脱をしている。よくテレビに出てくる明治天皇の玄孫、竹田恒泰などの竹田宮家などである。これを復活させる。20歳から40歳代までの男系男子が17人いらっしゃるという。ちなみに竹田恒泰は傍流だから竹田家が復活しても天皇にはならないと思う。

 

まず、その1の女系天皇容認論は、その2の否容認をどのような理屈で認めないか。曰く。

旧宮家を復活させろと言うが、国民は旧宮家の人間などだれもしらない。だれも知らない人間がぱっと出てきて天皇などはあり得ない。それよりも、愛子様のお子様がご成長なさって天皇になった方が国民の理解を得られる」

 

では、女系否容認論はこれにどう反駁するか。曰く。

悠仁親王は御年13歳である。仮に皇位を継承し85歳で御退位なされるとすれば、72年の時間が存在する。旧宮家はこの72年の間に皇室の威厳と国民との信頼を醸成することができる」

 

あと、女系否定論にあるのが、そもそも天皇は男系であり、女系天皇などというものは存在しない、という論である。女系天皇などと言う言葉を作ること自体がナンセンスだという。

 

では、一度臣籍降下した旧皇族が皇族に復帰した事例はあるのか、という問題であるが、そういった事例はある。59代宇多天皇臣籍降下して源定省と名告っていたが皇籍復帰した。

 

わたしは女系天皇、女系宮家もあり得ない話しではないと思う。というのも、もともと側室はなんでもありだったが、皇后は皇族出身と限られていた。それが、代45代の聖武天皇と時、初の民間皇后が誕生したのだ。藤原不比等の娘の光明皇后である。

 

斉明や持統のように、夫である天皇が死んで急にバトンタッチすることがあるので、本来皇后は皇族出身であるべき伝統がここで失われているのである。

 

だとすると、この先再び伝統が失われる可能性は否定できない。皇室典範が、などというが、今回の譲位に見られるように法などは変わるものだ。それに、なぜ男系論がこれだけ強いかと言えば、わたしの考えでは、上皇陛下素晴らしすぎたからだと思う。今上陛下も素晴らしく尊崇に値する。

 

もし今後トンチンカンな天皇が現れたら、だれも必死に男系男子を守ろうなどとは思わないのではないだろうか。むしろ、外の血でも入れれば? となりそうではないか。

 

わたしは伝統を重んじる派なので、実は上皇陛下の御譲位には反対だった。それは、猪瀬氏が言っていたように、われわれの力ではどうすることも出来ない時代という区切りを天皇は作る、という意味においてだ。この前の例で言うなら、「2019年の5月1日0時0分から新しい時代が始まります」などとやってしまえば、人の力では如何ともし難い時間区分の神聖さが損なわれる、というロジックだ。

 

だから、反対だったのだが、これは宮台氏の議論を聞いて考えを改めた。

「平成天皇はなぜあれほどの影響力を持ち得たのか。それは、寸暇も惜しみ象徴行為を行い、ご公務に励んでおられたからである。宮中のことなどわからないのでサボろうと思えばいくらでもサボれるし、それこそ摂政を置くことも可能である。だがそうすることなく、全身全霊で象徴行為を行うことによって象徴としての力を保っていた。もし、象徴行為が行えなくなり、象徴の力を失えば、政治の操り人形にされる恐れがある。それを避けるために譲位を行った」

これはなるほど、納得してしまった。