世の中には「えせ民主主義」や「なんちゃって民主主義」などと民主主義を揶揄する言葉がある。ならば、真の民主主義や完全民主主義が存在するのであろうか。そんなものはない。
多くの人間は民主主義が尊いものであると信じて疑わぬので、目の前の民主主義を揶揄するのである。目の前の本物の民主主義を疑い、あるはずもない真の民主主義にあこがれる故に、民主主義そのものを否定することが出来ない病に陥ってしまっている。
「えせ」や「なんちゃって」を付けるまでもなく、民主主義はもともと唾棄すべき制度であり不愉快な思想なのだ。チャーチルの言う「民主主義はクソみたいな制度であるが他のに比べたらマシ」という意見に同意したい。
ちなみに、民主主義とは多数主義である。多数が騙されていようが、多数が選挙に行かなかろうが、多数の意思の下選挙結果が出て、多数の意思によって動いていくのが民主主義である。
たまに阿呆な政治家が「みんなで昼飯に行くときに、蕎麦アレルギーの人がいる場合、その他みんなが蕎麦屋に行きたくても蕎麦屋に行かないのが民主主義」などとリアリティのかけらもない説明をする。4、5人で昼飯に行くのと国家を同列に語ること自体ナンセンスであるが、思考実験的には面白い。
数人で昼飯に行くくらいならば、民主主義でなく他の制度を用いた方がマシかも知れない。その中の一人にグルメがいるならば、ぜひ独裁で店を選んで欲しい。その方がその他の者の見識も広がる。
話が脱線したが、民主主義は母数に限界があるという話も聞く。ルソーなどは三万人くらいとしていたらしい。
人数もあるだろうが、わたしは民主主義が過った最大の要因は、行政が大きくなったことによると確信している。
戦後間もない僅かな行政サービスの時代であれば、民主主義はそれなりにマシな制度だったかも知れないが、福祉、介護、保険、施設、電気ガス水道、道路、ゴミ処理、教育、日常生活のありとあらゆることに行政が介入してくると民主主義は著しく機能しなくなる。
争点が分散すれば、どれもがどっちつかずになるのはやむを得ない話である。
昔の夜警国家であれば、国民は治安維持と安全保障にだけ気を配って参加すればよかった。それが今やマイナンバーカードやらで、paypayだなんだ、国民の財布にまで行政が首を突っ込む。検診を受けろ注射打てだなんだ健康にまで首を突っ込む。働き方改革だなんだと仕事にまで首を突っ込む。義務教育だ、リスキリングだ、少子化対策だ、パンツの上げ下げまで行政が首を突っ込む始末である。
国民もGODならぬGOLD。カミならぬカネ唯一絶対神の下、発展教、サービス教の信者に成り下がっているので、道路が出来ること、建物が建つことがいいと信じて疑わない。医療介護教育に国が金を出すというと尻尾を振って喜ぶ。だが、いくら道路が出来ても、建物が建っても、教育費が安くなっても、医療費が安くなっても、介護が充実しても、決して満足しない。なぜなら、発展教、サービス教の信者だからである。
このまま行くと民主主義は滅びる。もし、民主主義を滅ぼしたくないのであれば、行政サービスを段階的に廃止していき、夜警国家に戻すしかない。
わたしの予想では、ベイシックインカムが出来るあたりで、民主主義は崩壊すると思う。国から小遣いをもらって暮らしている連中が、どうして国を誇り高くすることが出来ようか。