本作は典型的なファンタジーアニメである。行って帰ってくる。主人公の行動を補助する案内役がいる。普通案内役はオルフみたいに可愛い道化なのであるが、本作はオジさん鷺。
タイトルが哲学者の著作と同一であり、前回が飛行機作りの真面目な作品であったので、本作はどれほど深い内容で、難解な作品なのかと緊張しながら見たら、なんてことはない、純粋に楽しめるファンタジーではないか。まさに往年のジブリ作品である。
観たという友人たちの話では、難しかった、とか、分からなかった、などの意見ばかりであったが、何一つ難しいことはない、何一つわからないことはない。深読みをしようとするから難しいのである。何か正解があると考えるから分からないのである。
深い意味はあるかもしれない、宮崎が狙った正しい見方というものがあるのかもしれない。しかし、それよりも重要なのは、作品を見て自分がどう感じたかではないだろうか。私も身構えながら見始めたが、数分で純粋なファンタジーアニメであることがわかったので、その後は純粋に作品に没頭した。作品に没頭できるだけの映像とストーリーが本作には備わっている。それで十分ではないか。
以上のことを断って、私の感想を述べたい。以下はネタバレである。
まず、友人たちとの議論で話題になった、眞人がなぜ自傷行為を行なったか。明白である。眞人が悪人だからである。眞人はああすることによって、父が学校に働きかけることを知っていた。なぜなら、あの田舎で、あの衆目の中喧嘩をすれば、眞人の「自分で転んだ」などという言が嘘だということはすぐわかる。では、なぜ、眞人は「転んだ」と言って直裁的に「奴らにやられた」と言わなかったのであろうか。これも、眞人の汚さである。自分は一言も彼らにやられたとは言っていない。父親が勝手にやったことだという言い訳を得るためである。
だから最後に大叔父が「悪意のない石を積め」と言った時に、自分の傷は悪意の証であると言い放つ。
これは非常に逆説的になるのであるが、汚い人間こそが美しい、という匂いがこの作品からは漂うのである。大叔父は完全に清い世界、善意の世界を作ろうとする。だが、そんなものは美しくもなんともないのである。人間が頭で考えた完全な世界など、気持ちが悪い。
清いも、善意も、汚い、悪意、の対立概念に過ぎないからである。清いという概念は汚いものがなければ成立しなく、善意という概念は悪意という概念がなければ存在し得ない。つまり、完全に清く、善意のみの世界などは成立しないのだ。
しかし、それは汚い、悪意、を肯定することとはまた違う。この善意と悪意の振幅を描く、作品を観てそんなことを感じた。
この作品には鷺とインコとペリカンが現れる。鷺は言うまでもなく詐欺である。人を騙すことである。ペリカンはキリスト教西欧文明、物質文明の象徴である。
インコは淫行に通じる。大勢のインコは増えすぎた人類へのアイロニーである。貪欲、を体現している。
そんな詐欺と淫行の世界が我々の暮らす世界の裏側に存在するというのは痛快ではないか。
また塔の中には時間の概念がない。すべての時間が併存している。過去と現在と未来が同時に存在する。これは量子力学的思考である。本来世界とはそういうもので、時間というものに囚われる故に、様々な苦しみが生じる。
ではその時間を超越すれば苦しみを超克出来るのかといえば、この作品では時間という制約の苦しみもまた良しと描いているようにも感じる。
うむ。考えれば考えるほどわからなくなり、深い意味が込められているようにも感じる。アマプラになったらもう一回観てみよう。