昨日のラジオで喋った話なのであるが、内村鑑三の評としてこういう表現が出てくる。
彼は唯一神の前に立つことによって、日本国からも「キリスト教国」からも独立しようとした。逆にいえば、いかなる意味でも服従することを拒む彼の武士的独立心は、唯一神に対する服従(サブジェクト)によって絶対的な「主体(サブジェクト)」たることを得たのである。
サブジェクトは非常に多義的な単語である。服従と主体は本来対立する概念である。どうして、この二つが同じ単語で表されているのだろうか。
subjectの語源はsub(下に)ject(投げる)である。
下に投げる。一体誰が下に投げるのだろうか。
誰かに投げられれば服従。
自分が投げれば、服従させる、という意味になる。つまり、立ち位置によって意味が変わってしまう。英語ではこういう単語が幾つかあるらしい。そして、普通このように説明される。
だが、柄谷の文は実に味わい深い。唯一神に仕える人間は、他の誰にも仕えることがない。神、ただひとりと対峙することによって、なにからも影響を受けることがない自己となり得る。
唯一神に対する服従(サブジェクト)によって絶対的な「主体(サブジェクト)」
この説明のほうが面白い。