このブログでダンディズムについて研究していた甲斐あってか、先日初めて、「星さんはダンディですよね」と言われた。
それが嬉しくて、「ダンディだって誉められちゃったよ」とおおよそダンディズムとは真逆の発言をしたら、五歳児に、
「ダンディってなに?」と聞かれた。
「ほら、見て分からないか? 今日の服。お洒落で格好いいだろ?」
「あ、わかった。カッコイイってことね」
確かに、カッコイイはダンディズムの一面ではあるが、一面に過ぎない。むしろ、カッコイイだけではダンディではない。
「まぁ、格好いいってのもあるけど、それと同時に渋いんだよ」
「シブイって苦いってこと?」
「いや、渋いっていうのは味があるってこと」
五歳児は嬉しそうに持っていたラムネのお菓子を指して、
「あ、これ、味があるよ!」
「味があるってのと、味がするってのは違うんだな」
「違うの?」
「味があるってのは、深みがあるってことなんだ。つまり、言葉に出来ない微妙な部分を味って言う」
説明が深みにはまってもはや意味不明になっている。五歳児もこの話題に飽きてきた模様。
結論。五歳児にダンディズムは分からない。ダンディを理解している五歳児は五歳児ではない。言葉というのは意外に雑駁なもので、言葉以前の観念や共通の前提が膨大に存在してこそなり立つものだと思う。
だから、言葉を学ぶには、言葉以外の物を学ぶという、遠回りというか、通らなければならない道筋があるのだろう。