今週のお題「行ってみたい時代」
わたしは最近、お題を使って書くと言うことをしなかった。なぜなら、お題の内容が必ずしも書きたい内容と一致しないからで、自らに連続投稿を課しているわけでもない今、書きたくもないことを書くというのは、自分にとっても無駄であるし、読者に対しても失礼にあたると考えたからである。
今回、お題に対し投稿を試みているのは、今週のお題が興味深かったからである。
わたしは縄文時代へ行きたい。日本の縄文文明というのは1万年以上続いた人類史上最長の文明である。
現代を否定するレトリックとして過去との対比がある。一昔前までは戦前との対比が流行り、家族制や農村共同体のような現代が失ったものへの憧憬を煽っていた。しかし、安倍内閣が本格的に戦前回帰を目指すと、レトリックとして使うべき戦前がリアルティを持ち始め最早現代を否定する対比となり得なくなってしまった。
なら、江戸時代でも、室町時代でもいいではないか、となりそうなものだが、そうはならないのである。文化とは縦軸ではなく横軸である。わたしは最近服飾文化を研究するにつけ、我々が共有する文化とは、血や民族や歴史よりも、日頃の嗜好こそが共有文化だという考えが強くなってきた。つまり、1700年の江戸、よりも、2000年のニューヨークの方が、2015年を生きる日本人にとって文化的共通点が多いと言うことなのだ。
ちょんまげを結って前開きの着物を着てウンコを畑にまいて日の出入りに合わせて寝起きするなど我慢が出来ぬと言うよりも想像できぬのではなかろうか。
話が逸れたが、つまり、現代との対比で戦前を失った今、江戸時代は文化的に対比になり得ず、ならば、どこが対比なり得ているかというと、なんと縄文時代なのである。なぜ、飛鳥や古墳や弥生時代ではないのか。これらの時代は中国朝鮮の文化が色濃く、国粋的には不愉快な時代なのだ。
故に縄文。これは日本古来のものと言えないことはない。縄文文化というのはなかなか面白いもので、土偶や縄文土器などを見てわかるとおり、なかなかの芸術性も発揮されている。他にも、貝塚などは、以前はゴミ捨て場、と考えられていたが、現在では供養の場という研究も出ている。これは、環境倫理学にも繋がる思想で、自然環境を「祭る」という慣習が縄文時代にはすでに存在したということだ。
山のようなファックスとメールを片っ端から片付け、日が暮れだしたらレセプション。で、朝の勉強会。現代は疲れる。無い物ねだりであることはわかっているが、縄文の生活の優雅であろうことにあこがれる。