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コナカのCMが皮肉、というか苦肉すぎる件 コナカの深謀遠慮。

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松岡修造のスーツ魂その2
Q「なぜワイシャツの袖をジャケットから出した方がいいのか」
A「ジャケットが素肌にふれるのを防ぎ、長持ちさせるため」

まず設問が誤っている。ワイシャツの袖は出した方がいいのではなく、出さなければならないのだ。

設問が誤っていれば当然回答は真実から乖離せざるを得ない。

なぜワイシャツの袖を覗かせなければならないのか?
正解は、それがマナーでありルールだから、である。
それが何故ルールであるかは、美しいからにつきるのであるが、ルールとは破るためにあるから、破りたいものは大いに破ったらいい。幸い国家権力による罰則規定は設けられていない。ただし、ルールを破ったからといって、ルールそのものがなくなることはない。

落合先生のご著書「ファッションは政治である(295頁)」には以下のようなくだりがある。

昭和五十年頃までのデパートの販売員たちは、顧客に対してシャツの袖を出す理由を、スーツの袖口を汚さないためであると真顔で講釈した(実際にそう説明された経験がある)。日本人の知識はその程度だったのである。

さて、昭和五十年代のデパートの販売員が汚れ防止を信じていたとしても、まさかスーツ業界最大手のコナカが信じているわけがない。もし信じて放映したならば大規模な自爆テロである。

信じていないのならば、何故コナカは美の神髄であるルールを単なる打算的合理主義に貶めて「シャツの袖を出せ」などとしたのだろうか。

コナカの担当者に確認したわけではないので、あくまでわたしの憶測であるが、おそらく、コナカの担当者はなにゆえにシャツの袖をスーツの袖から覗かせるべきか、それを説明できなかったのだ。

「諸君。一度シャツの袖をスーツから覗かせてみよ。さすれば、その美しさに自ずから気づき、従前の愚かさに恥じ入るであろう」

などというこのブログのような傲慢な説得が出来なかったのだ。

そこで、苦肉の策として、「スーツの袖を汚さないで済むので、スーツが長持ちしますよ」などという尤もらしい理屈を拵え、人民の節倹の心に取り入ろうとしたのだ。

確かに、シャツの袖がスーツの袖より前にあればスーツは汚れない。その通りだ。
しかし、だとすると、以下の疑問にはどう答えればいいのだろうか。

なぜ、外套の袖はシャツの袖より前にあるのか?
なぜ、ズボンの裾はワンクッションというように、靴にかかるのか?
なぜ、ジャケットには止めることのないボタンがついているのか?

もし遺憾なく合理的節倹の精神を発揮させるのであれば、外套の袖からシャツの袖を覗かせるべきであるし、ズボンの裾は靴にかからぬようつんつるてんにするべきであるし、ジャケットの止めることのないボタンなどは最初から付けなければいい。これはエコですらある。

上記の問にわたしならこう答える。
「それはルールだからだ」
タイスペースに緩みを生じさせないこと、ポケットチーフは覗かせること且つ覗かせすぎないこと、ポケットにものを詰め込みすぎないこと、ズボンはウエストで履くこと、靴の踵は踏まないこと、これらはルールなのだ。

スーツスタイルとはルールで成り立っている。そのルールを破ればカジュアルにならざるを得ない。

ルールは守らないがカジュアルにはしたくない、というのは、信号は守らないが事故は起こしたくない、というのと同じで、絶対に車が来ない道で試みるか、誰とも会うことのない自分の部屋の中で暮らすしか方法はない。

自分はコナカのCMを山手線の中で観た。さて、コナカの策略で、どの程度のものたちがスーツの袖からシャツを覗かせるようになるか、楽しみである。


ファッションは政治である―モードに秘められた権力の構造

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