「他人の意見は尊重しましょう」
「多様性を認めましょう」
などと教えられてきたが、現実はまるで違う。
このブログの読者はご存じの通り、コロナ問題において、わたしは反自粛派であるし、都市封鎖などもってのほかだと思っている。緊急事態宣言などは茶番劇以下だと思っている。
コロナウイルスなど全然大したことないと思っている。死亡率からしてコロナに気をつけるくらいなら交通事故やインフルエンザに気をつけた方がましだと思っている。
リアル生活でもこのブログほど露骨にではないにしろ、コロナを馬鹿にして、普通に振る舞っていると…………ちなみに、普通に振る舞っていると、コロナ脅威派の連中の目には「油断している」と映るらしく、鼻つまみ者のように扱われ、汚物を眺めるような目で睨まれることがたびたびある。
ヤフコメなどを見れば一目瞭然であるが、コロナ脅威派はコロナに対して油断している若者や出歩いている人たちを「国家の敵、人類の癌」と見なし糾弾する。
わたしはここに、戦前の「一億層火の玉だ!」的な翼賛体制を感じる。伝わってくるのだ。その中で大勢と異なる意見を言うのが、これほど自己の存在を危うくすることなのだと初めて知った。
コロナと太平洋戦争は全然違うというだろう。
しかし、今実際、「一億総コロナ対策!」であり、コロナ対策翼賛大勢が生まれつつある。
もともと「翼賛」という言葉は「力を添えて助けること」である。つまり、その中にいる人々は自分のやっていることが正しいと信じて行っている。自分のやっていることが国や人々を助けると信じて行っている。だから、戦前の大政翼賛の中で、戦争に反対するものは敵であり、現在のコロナ対策翼賛の中にあっては、コロナなど雑魚ウイルス扱いするものは敵なのである。
この構造は今も昔も変わっていない。
言論の自由は憲法で保障されているから大丈夫だよ。というかもしれない。しかし、緊急事態宣言などにより、外出禁止令が出されれば、行動の自由は制限される。また、コロナについて非予防的な言論は取り締まりの対象になったところで不思議はない。
しかし、事の本質はそこではなく、一般社会において、不文律の言論統制がなされることである。現にわたしはリアル生活においてはその言論を脅威派に合わせて、「やっぱコロナやばいっすよね」などと迎合を試みている。
中国の愛国無罪ではないが、コロナ対策無罪、的な世の中になれば、コロナ対策の名の下に経済破壊から学校崩壊まで、やりたい放題である。そして、社会がそれを良しとして推し進める恐ろしい世の中になる。
翼賛体制の恐ろしいところはブレーキがないところである。翼賛体制は常にアクセルベタ踏みの車である。合理的な判断が及ばない世界なのだ。日本はまだ死者が70人ほどだ。完全に抑えられているに等しいではないか。ちなみに普通の肺炎では日本だけで年間30万人以上死ぬのだ。だが、政治はここぞとばかりにリーダーシップを発揮したがり、マスコミはセンセーショナルに書き、国民はより強力な規制を希求する。ブレーキがないどころか、文字通り翼が生えてグリップすら失っている。
そこで、わたしは、まずネット空間から過剰なコロナ対策に抑制を働かせられないか、そのことを考えている。