哀愁の町に霧が降るのだ
もともとは上中下であったあが、文庫では上下巻である。
椎名誠の中学校時代から昭和57年ごろまでの自伝小説である。椎名誠は昭和19年生まれなので38歳までということになる。どこまでが実話でどこからが作り話だかよく分からない。
主に克美荘というアパートで友人と今風にいうとシェアハウス的な生活を送っており、その顛末がかなりの枚数を占めている。
そういう時代だったのだろうが、喧嘩ばかりしているのにはかなり参った。欽治という不良が主人公のことを気に入らないと言っている、という伝聞をもとに、いきなり欽治を後ろから蹴り倒しぼこぼこにするとか、総武線で目が合っただけで喧嘩をふっかけて、そのあげくに歯を三本折られるとか、酒がなくなったから酒屋に侵入して窃盗を犯すなどは、どん引きである。
椎名氏は、なぜそんなことでキレるのか? というほどキレる。あと、出会う人間に悉く悪意を抱くのである。わたしはそう言う主人公の性格におぞましさすら感じたのである。わたしは最近、なにかでその感覚を味わった気がした。思い出してみると、それはあの宮崎文夫容疑者に大して感じたおぞましさに似たものであった。
現代の価値観で読んではいけないということは分かっているのであるが、歴史物のようにも読めぬ。時代はすぐそこで振り返ればまだ視界のうちなのだ。読んでいてなんども顔を顰めてしまった。
あと、評論家の言として、この小説が太宰と似ていると書いているが、太宰とは似ても似つかぬと思う。もうどこも一つも似ていないのであるが、なかでも最も似ていないところはこの小説が冗長だという点である。若者の青春をリアルに描いたといわれればそうなのだろうが、うだうだうだうだ堂々巡りが繰り返され、ほぼ毎日同じようなことばかりしているのである。
なら、つまらないかといえばそうでもないのである。なんだかんだで投げださずに最後まで読んでしまった。観たくないが興味が引かれ、薄目を開けて思わず観てしまう、そんな不道徳的な作品なのである。
見たくはないのに興味が惹かれ気にせずにはいられない。その点も宮崎容疑者を彷彿とさせるのだ。