陶淵明伝の中にこういうくだりが出てくる。陶淵明が自分を評して言うのである。
「好読書、不求甚解。(書を読むを好むも、甚だしく解するを求めず)」
吉川先生はこの言に以下のような注釈を付ける。
「書物を過度に分析することによって、古典の言語が持つカオスを分解して無理なコスモスを作らない」
日本近代文学の起源を精読している最中なので、この言葉が非常に腑に落ちるのだ。
精読とはある意味、書物を利用して、自分なりのコスモスを作り上げる作業である。
自分が作り上げたコスモスは、もともとの書物がもつ世界とは異なったものになる。同一のものは作り得ない。
さらに、わたしの場合、ラジオとしてそれを喋っている。喋っている端から自分が解したことを正確に言えているか不安になる。聞いた人はまたあらたなコスモスを作るだろう。どんどん古典から離れていってしまう。
陶淵明は有名な飲酒という詩の中で曰く。
「此中有真意、欲弁已忘言」
真意を見つけても、口に出そうとすると言葉を忘れてしまう。
わたしのラジオは真意さえ見つけられているか微妙である。