ここ数年ハロウィンが徐々に盛り上がりを見せている。当然、日本にハロウィンの伝統的文化などあろうはずもなく、商業主義がこれでもかと笛や太鼓を掻き鳴らし、ようよう人々がついてきたという感が否めない。
子ども達は純真なので商業主義の影響を受けやすい。近所の子ども達も、百均のハロウィンセットに身を包み、「トリック・オア・トリート!」と家々を回っていた。それはそれで楽しいのであろうから、否定する気はないが、それが別にハロウィンでなくても成立することは間違いないだろう。
好例はクリスマスで、あれだけ普及すると付き合わざるを得なくなっている。クリスマスプレゼントを請求されれば、そこに一定の正統性を認めざるを得ない。まさに、商業主義の勝利の象徴がクリスマスであり、ハロウィンはクリスマスの二番煎じを狙っているにすぎない。
そこで、思いあたったのは、スーツ文化に心酔し装うことを楽しみそすることと、文化的慣習にただ従う形でスーツ姿を装うことについての差異である。ケルト文化に心酔し、その一環としてハロウィンを楽しむものと、商業主義に踊らされた群衆に揉まれハロウィンっているものの違いである。
興味のないものから見れば、どちらも同じスーツ姿をしているだけで、さしたる差異は見つけられないだろう。だが、装う本人の自己満足感はまるで違うものである。自己満足が良い意味で用いられることは少ないが、装うことに対する矜恃、自負、プライド、とも言い直すことが出来る。詰まるところ、矜恃、自負、プライドは自己満足なのである。
「お洒落はコミュニケーションで他者のために装う」などという思想が氾濫した結果、我が日本社会では洋装もまたクリスマス的になってしまった悲愁が漂う。果たしてここに深い喜びはあるのだろうか。
なにも疑いを挟まずにクリスマスを心底楽しめる人は幸いであると思うが、そうなりたいかと問われれば答えは否。場を白けさせるわけにはいかないので、わたしも「メリークリスマス! ヒャッホー!」などと言ってみせはするが、一抹の空しさを常に抱いている。これを払拭するには、キリスト教文化に深く心酔し、クリスマスの蘊蓄を語れるようにならなければならない。もちろん、キリスト教徒になる気はないし、そんな暇もないので、わたしはスーツの歴史と精神を研究するだけに止める。