自分は硬筆書道やっている。硬筆書道とは、鉛筆やボールペンを使って綺麗な字を書こう、というもの。毛筆に対して硬筆。
昔からやってるわけではない。ネットでお試し版があり、申し込んでやってみたら意外に面白かった。毛筆にしようかどうか迷ったが硬筆の方が実用性が高いだろうと思い硬筆にした。
しかし、書道の実用性とは一体何なのだろうか。文字の第一義は意思の伝達である。その意味において、文字など読めればいいのである。そうすると最も実用性の高い文字は活字ということになる。書道では行書のみならず草書も学ぶ。草書となるとこれはもう学んだ者にしか読むことができない。文字の第一義である実用性から大いにかけ離れてしまう。
ならば、書道の目的は文字の第一義とはまた別の何かであると考えざるを得ない。毛筆、硬筆ともに目指すものは同じである。いかに文字を美しく見せるかという点である。美しく見せるという点において第一義である意思の伝達という文字本来の機能からはいささか離れることとなる。
しかし、今一度意思の伝達という意味を考えてみると、文字はその言葉だけではなく感情も表現しうるものではなかろうか。例えば、明朝体とゴシック体でも受ける印象は違う。流麗な文字で書いてあるのと、大人が幼稚園生みたいな文字で書いているのでは印象が違う。
文字は人を表す。上手ければ良いというものではない。だが、下手すぎても教養が疑われる。やはり、上手いに越したことはない。
そして、気がついたのであるが、どれだけ上手くなろうとも、文字から人間味が消えることはないし、人格を隠せるものではない。書道を習うと文字の個性がなくなり、みな同じ文字になるというのは嘘である。それは、同じ背広を着ていても、話してみれば一人一人違うことがわかるのと同じことである。