名文中の名文である。
↓これを参照した。
やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける 世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり 花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生きるもの、いづれか歌をよまざりける 力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり
和歌に限らず、詩というものはある種の定型がある。定型がないと小説になってしまう。その定型に納めることで、また味わいを引き立てる。
写真に似ている。写真はフレームの中に被写体を納めることによって、なにを写したのかを明確にする。
和歌とは、われわれがスマホでパシャパシャとる写真のような物だ、と誰かが言っていた。わたしたちは、美しい景色や、面白いオブジェ、友達との記念、美味いもの、気になる物を見つけて、そんなときに写真を撮る。
写真のない時代、思い出を記憶にとどめるのに歌は恰好であった。
写真が被写体を現実より美しく見せることがあるように、和歌も対象を現実よりも美しく表現することができる。
例えば、紀貫之の歌。桜が散る姿を詠んだ。
桜花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける
真名で書くとこうなる。ペンはパーカー75。