一人暮らしをしたのはこれまでの人生でほんのひと月だけ。ずっと親元で暮らしていて、その後は配偶者と同居している。
だから、このお題はその一ヶ月間のことを書くしかない。10年以上前の8月だった。
アパートをあてがわれて、仕事をさせられた。職場が家から遠いわけではなかった。一時間足らずだ。ただ、仕事時間が5時9時で家から行くのはつらい。朝の5時に現地に行って、終わるのが21時。
食費、アパート代、その他経費は全て出るが、日給5000円。
そんなことはどうでもいい。
一番衝撃的なのはアパートだった。東京下町にある木造アパート。外階段は軋むし。建物から異臭が漂い、部屋に入ると異臭にまた別の異臭が加わる。トイレを開けると和式トイレの奥から激臭が立ち昇ってくる。白さはとうの昔に失っており、汚物でコーティングされているトイレ。これに比べたら駅のトイレはスイートトイレだ。
ある社長は、トイレが汚い会社とは取引をしない、と言っていた。それほどトイレは象徴的なもので、推して知るべし、畳もふかふか、クーラーもない上に網戸もない、隣人は外国人。しかもしょっちゅう性交に励んでいる。そういう商売をしていたのかも知れない。
昭和の木造アパートなのでユニットバスではない。風呂トイレ別、と書けば見栄えはいいが、単に風呂がないだけで、風呂は近所の銭湯を使えとのこと。しかし、21時に仕事が終わると、もう銭湯は閉まっていて、結局風呂には入れない。
真夏で汗だくで臭いので、当時コレクションしていた香水をいろいろつけていた。綺麗な色を作ろうと、絵の具を混ぜ合わせれば混ぜ合わせるほど名状しがたい黒に近づいていくように、わたしの匂いも通常では発し得ない香りになっていた。
そのアパートは新種の昆虫を見つけることが出来るという噂で、確かに見たことがない虫が何匹かいたが、わたしにはそれが新種かどうかの知識はなく、また虫は嫌いなので捕まえるのも憚られ放っておいた。
クーラーもなく、網戸もない。栄養豊富なトイレがあるので、それで虫たちが集まってくるのかも知れない。
あれから10年以上経つが、まだあのアパートはあるのだろうか。わたしはひと月だから面白おかしく暮らせたが。
ある意味アトラクションである。アパート会社も利便性や快適性を追求するのではなく、あえて、何もない修行僧のような部屋を提供すれば、需要はあるのではないだろうか。
キャッチコピーはこんな感じだ。
「本当の必要を見つけよう」