孔子は理想の世の中をイニシエに見出した。尭、 舜、 禹、湯王、周公などの聖天子に規範を見出し、イニシエの時代への回帰を説いた。
孔子がイニシエをどれほど正確に理解していたか知らないけれども、現代の我々がイニシエに理想を求めることは不可能である。昔の時代がそれほどよかったかと問えば、そうでもなかったことを歴史が証明してしまっている。
所詮人の世、いつの時代にも理不尽や欠陥はある。だからキリスト教などは神の世を説いているのかも知れない。
さて、一般的日本人は神など信じていないので、神の世に理想を求めよ、と言われてもピンとこない。では、我々が目指す幸福はどこにあるか? 科学だろうか? そんな宗教があるが、どうも科学も便利になるだけで、便利になるとまた失われる物が出てくる。
そこで、自分はふと気づいた。ひょっとして、イニシエも現代も未来も、幸福の絶対量は一定なのではなるまいか、と。個人にとっての絶対量、全体にとっての絶対量。そもそも、幸福に量という物理的な概念はそぐわないが。
例えて言うと、仮に地球の人口が100人程度ならば、土地も含め無限に近い資源を独占することが出来る。しかし、100人ではスケールメリットが出ないので、広大な建造物などは建てることが出来ない。また、人との交流も限られた物になるので、密なものにはなるが広いものにはならない。密と広がり、どちらが幸福であるかは計れないと思う。
計れないけれども、あえて、量があると仮定すれば、その分量が動き回っている感じ。科学で失われるものがあるが、得るものもあるのと同じに。