文学・文具・文化 趣味に死す!

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すずめの戸締まり を観た 感想 レビュー 批評

君の名はと天気の子のレビューはこちら。

 

君の名は。を観た - 文学・文具・文化 趣味に死す!

天気の子 つまらなすぎ 1900円も払って観た - 文学・文具・文化 趣味に死す!

 

 

東宝ウエンズデイだったので1200円で観た。

新海作品の特徴は、男と女の恋愛が成就するために、何かが犠牲になる。君の名はだと、三葉が死んだ後の数年間が犠牲になった。天気の子などは分かりやすく、東京が水没するというあり得ない犠牲を払った。どう考えてもバッドエンドとしか思えない終わり方を映像美で無理やり綺麗にしてしまった。男女の恋愛成就の前にはあらゆる犠牲は取るに足らぬものという扱い。先日刺された宮台氏の言葉を借りるならば、「仲間以外は皆風景」といったところか。

 

ネタバレあり

 

今回のすずめの戸締まりの犠牲は大臣である。

 

はっきり言って、この作品はすずめや草太の視点から観るとリア充の男女が内輪で盛り上がり楽しそうに旅しているだけで、なんとなくいけすかない。普通に観ただけではつまらないどころか、不愉快な作品にすら感じた人も多いのではないだろうか。不愉快に感じる最大の理由は、犠牲に対する感謝の念を失ったすずめと草太の盲目的なまでのエゴイッシュな世界観である。表面の人間関係だけを扱い、災害(ミミズ)は封じ込めるべき悪と断じ、その裏側を無視し続ける主人公たちに観客は辟易したのではないだろうか。

 

では、この作品がつまらなくてくだらないかと問われれば、決してそんなことはなく、わたしはこの作品の中に多くの気づきを発見した。また、そういう見方ができるように意図的に作っている感すらある。

 

作品を見終わった後、大臣の視点から、大臣の立場で思い返すと、主人公たちの物語とは全く違う世界が浮かび上がる。

 

大臣の視点から見る物語は以下のように説明できる。

 

大臣は長い間要石として災害を防いでいた。要石である大臣はその場所から動くことができない。しかし、すずめははからずも大臣を解放して要石から猫に戻してしまう。大臣は一時の自由を味う。自分を解放してくれたすずめに感謝と好意を抱き、すずめと遊ぼうとする。しかし、すずめの横には自分をただの災害を抑える「石」としか考えない閉じ師がいる。ならば、この閉じ師に要石の気持ちを教えてやろうと要石の役割を渡す。ただ、大臣は災害を抑えるという自分の役割を忘れていない。ゆえに、すずめたちを開いてしまったウシロドに案内して、災害を防ぐ。結局、すずめも草太も自分達が要石になるのは嫌だけれど、要石としてその役割を果たしていた大臣に思いを馳せることはなかった。一時の自由を味わった大臣は再び、災害を防ぐべく要石に戻る。

 

なんとも悲しい物語ではないか。

 

話を批評に戻そう。まず、草太のキャラクターである。教師を目指しているというところも草太らしい。わたしも教職課程を履修していたから知っているが、教師を目指している人間というのは、学問を学問のためにするのではなく、格下にものを教えるために学問をする。子供を洗脳しようというドス黒い欲望が滲み出ているものが多い。つまり、教師は自分こそが正義であり、自分こそが正解であると考えている。

 

草太は最初から要石を犠牲にしてミミズを抑える、また、要石はそのためにあるのだと信じて疑わない。この草太の態度はまさに大量消費社会、使い捨て社会を象徴している。自らの便益の観点からのみ物の要不要を判断し、物は自己の高揚の最大化のために存在すると疑わない態度。草太は祝詞のようなものを唱えたりするが、万物に神が宿るという感覚を消失した典型的現代人であり、己の中で確固たる正解を持った教師なのである。自然界に対する敬意を持ち合わせていないのである。

 

そんな草太のアンチテーゼとして、新海は草太が「物」として扱う要石を擬人化、否、擬猫化するのである。

 

上記の設定の上で、草太と大臣の戦いが繰り広げられる。本当なら、要石にさせられた草太は少しくらい要石だった大臣の気持ちを理解してよさそうなのであるが、要石になりたくなーい! というだけで、大臣の気持ちを理解することはない。すずめも同じである。草太の代わりに要石になるー! とはいうが、ずっと要石をやっていた大臣に対する感謝は微塵もない。恐ろしいアベックである。結局神は敗北して、神の存在を忘れた人間は日常を繰り返す。

 

この作品を一言で表現するならば、神への感謝をすっかり忘れて幸せを追い求めるエゴイッシュなアベックの話。とまとめられるのではないだろうか。

 

これはわたしが勝手に解釈しているとは思えない。神への感謝を忘れていない人物として、草太のお祖父さんという人物が描かれている。この人だけは大臣に対して感謝を伝えている。また、すずめも大臣を「神様」と認識している。最後の最後で、「大臣は私たちをミミズが出るところに案内してくれてたんだ」とのセリフもある。

 

また車で東北への移動中、大臣の台詞で「はやく人間だけで解決してくれ」と言う。大臣は草太に要石を味あわせるも、草太に務まるとは考えていなかったと思われる。結局最後は、自分が要石に戻ってミミズを押さえ込む。

 

エンデング、すずめは旅の途中でお世話になった神戸や愛媛で感謝を伝える。しかし、要石となった大臣には微塵の感謝も示さない。見えるもの、触れられるものには共感し感謝を示すが、見えなもの、触れられないもの、霊的なものへの感謝を忘れている。これこそ日本人が失ってしまった感謝の心ではないだろうか。

 

噛み締めれば噛み締めるほど、すずめと草太は現代の病理としか思えない。こんな作品をしれっと作ってしまう新海監督はすごい。

 

最後に、前田英樹「日本人の信仰心」より、私の好きな一文を紹介したい。

 

神代には、人はみな神さまだった。米を作り、米だけで暮らす、神の生活を生きていた。では、こういう神さまたちは、一体何に感謝していたのだろう。物が在ることに、自然が変化し、生が持続することに感謝していた、と言うよりほかはない。しかし、物も自然も生も、ただ言い方が異なるだけで、それらはみな神さまが持つただひとつの性質に属するではないか。結局、神さまは何かに対して感謝するのではない、〈感謝〉という、不思議な尊いはたらきそれ自体が神である。日本の神とは、対象のない〈感謝〉それ自体だと言ってもいい。