文学・文具・文化 趣味に死す!

小説家 星香典(ほしよしのり)のブログ。小説、映画、ファッション(メンズフォーマル)、政治、人間関係、食い物、酒、文具、ただの趣味をひたすら毎日更新し続けるだけのブログ。 ツイッター https://twitter.com/yoshinori_hoshi  youtubeチャンネル https://www.youtube.com/channel/UC0YrQb9OiXM_MblnSYqRHUw

はたして政治家が国のために働くことは可能なのだろうか???

自民党の不祥事が相次いでいる。

彼ら政治家に国を思う心はあるのだろうか?

「あなた、国のことを考えてますか?」

と問はば、

「はい。国のことを考えています」

と答えるだろう。

では、その政治家にとっての国とは一体なにをさすのだろうか?

 

これは政治家だけの問題ではないだろう。

教育者、経営者、労働者、芸能人、職人、浮浪者、に至るまで、「国」がなんであるのかそれぞれ十人十色なのではなかろうか。

 

この漠然とした「国」のために働くとはどういうことなのだろうか。

 

経営者や労働者は「おれたち政治家じゃないから」と言って国のために生きることを回避することが出来る。だが、有権者が「国」のために生きることを回避し続けた結果が今の惨状ではなかろうか。

 

ただ、一億総火の玉になって国のために生きるというのも恐ろしい。そんな一億に押される形で、政治家がガチで「お国のため!」などと言い出しかねない。それなら、適当に道路や体育館や裏金でも作っててもらった方が平和なのかも知れない。

 

とにかく、国というものが判然としない中で、国のために働けなどというのは、目的地が分からないのに目的地へ向かえ、というのと同じようなものだ。

 

ウェーバーは国民を「国民化」することを目指した。そして、今や多くの先進国で国民化は衰えている。国民化がちゃんと出来ている国など、イスラエルウクライナ北朝鮮、くらいかと予想する。

 

はたして外圧抜きで国民化教育など可能なのだろうか。

日本のダンディズムについて

レースシューズをスリンポンのように履くはダンディに非ず。必ずや紐を解き、足を入れ、しかるのちに紐を結ぶべし。
上記のごときはダンディズムのイロハのイである。
しかし、このイロハのイがこと日本においては中々難問である。
出かけようとして靴紐を結ぶ。「あ、財布忘れた」と靴紐をほどき財布をしまい、また靴紐を結ぶ。「あ、バッテリーやばいな。モババ持っていくか」靴紐をほどき、モババを持って靴紐を結ぶ。「二階のストーブ消したっけな?」と靴紐をほどき……。
時間がいくらあっても足りぬ。こと日本においては靴紐は易々と解いたり結んだりしていいものではない。私は上記のような場合、靴のヘリだけ使って家の中に入ってしまう。または片足だけ脱いでケンケンで家の中に上がる。どちらもダンディズムとは程遠い。
そう考えると、日本人が履いていた草履や下駄というのは非常に理にかなっている。日本には「草鞋を脱ぐ」という諺がある。旅を終えて目的地に到着して草鞋の紐を解くことである。私は草鞋を結んだことがないので、レースシューズの紐を結ぶのとどのくらい手間が違うかわからないが、草鞋は年中解いたり結んだりするものではないだろう。
先日の沈黙の艦隊でも書いたが、もはや欧米を理想とする社会ではない。ダンディズムもそろそろ欧米の文化から脱して、日本独自、アジア独自、もしくはボーダーレスのダンディズムを実現する必要がある。
クロックスは奇しくもアメリカの企業であるが、クロックスブランドの売上高上位5カ国には、中国、インド、日本、韓国とアジアの4カ国が入っている。私もクロックスを履く機会は多い。夜に買い物に行く時など、クロックスは楽でいいのである。売上の多くがアジアであるように、クロックスは靴の脱ぎ履きを繰り返すアジアでこそ需要がある。
ところで、フォーマルなクロックスは出来ないものか。カジュアルのファッションは欧米一辺倒から舵が切られていると思う。しかし、フォーマルはいまだに欧米一辺倒である。クールビズスーパークールビズを以て我が国独自のフォーマルと呼ぶべきだろうか? 否。私はクールビズをフォーマルとは認めない。なぜなら、クールビズの理由が「暑いから」というダンディズムからかけ離れたものであり、暑いから、という理由でネクタイを取り、上着を脱ぎ、ワイシャツの袖を切り落として、第一ボタンを外すのは断じて思想ではない。まだカジュアルの方が思想がある。

沈黙の艦隊を観た Amazonプライム タイムスリップ体験: 1990年ごろの感覚と愛国者の葛藤

 

Amazonプライムで絶賛放映中である。私は「空母いぶき」を面白いと思わなかったので、見る気は全然なかったのであるが、知り合いがめっちゃ面白いともうプッシュするので観たらめっちゃ面白かった。

海江田が諸葛亮ばりに賢いというのがこの映画の売りなのだろうが、その背景は現代の日本である。アメリカに追従するだけの日本に我慢ならないという政治家達が海江田の反乱を利用してアメリカとやり合うという極めて非現実的な内容である。

潜水艦の中の事など私は1ミリも知らないが、映像からはリアリティが伝わってくる。ソナーで探知するなど、手に汗握りながら見ることができる。シーズン2が楽しみである。

しかし、沈黙の艦隊が連載されたのは1988年から1996年である。核の「か」の字でもいったら閣僚の首が飛ぶ時代である。さらに、ジャパンバッシングから牛肉オレンジ交渉で、それまでのアメリカ一辺倒から舵を切り、バブルで経済大国となり、アメリカにへりくだり続けるのに疑問が出て来た時代である。

そして、1995年の小林よしのり戦争論、1996年の新しい教科書を作る会、などと日本人の国家感が徐々に変わっていく。

いまやアメリカやヨーロッパなど白人連中に対してアジアは一歩も引けを取らぬという時代となった。今アメリカにあこがれている若者などいるのだろうか?

という隔世の感が否めない。で、この作品を見ていると、どうしても1990年ごろの感覚にタイムスリップしてしまう。つまり、この作品はわれわれおじさん向けの作品なのではないかと思ってしまう。

もう少し具体的に言うと、現代の感覚からすると深町は焦れったく、深町の思考に違和感を覚えるだろう。そして、海原や防衛大臣の曽根崎仁美などを応援したくなる。しかし、当時の良識では、深町的思考がギリギリの愛国者で、海原や曽根崎などはスーパーエキセントリックで論外なのだ。当時は「第二次世界大戦は日本だけが悪かったわけではない」と言うくらいで変人扱いである。

 

ただ海江田が独立国やまとの元首を名告ったあとも海上自衛隊の制服を着用し続けてるのには違和感があった。