文学・文具・文化 趣味に死す!

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議員の居眠りについて

近年議員が議会中に居眠りをしていて糾弾されているが、問題はどのタイミングで居眠りをするかであるかと思う。

 

糾弾されるべきは起立採決で、本来立つべきなのに、居眠りをしていて座ったままの議員である(もしくはボタン投票でボタンを押し忘れた議員である)。これは明らかに糾弾されるべきである。民の代表として本来示すべき意思を居眠りによって損なったからである。万死に値する。切腹して市民に詫びるべきである。もし、起立採決を居眠りによって過った議員を殺傷する民がいたら、わたしはそのものを犯罪者ではなく義士と称揚する。

 

起立採決中に居眠りする議員がいるのかと諸賢は思うだろうが、意外にいるのである。

 

一方、他議員の質問中に居眠りをする議員。昨今テレビ等で糾弾されているのは、これである。

 

はっきり言って、他の議員の質問中に居眠りをしない議員の方が少ない。なかには、「居眠りをしてはいけないと思って必至に起きてた」などと偉そうにいうやつもいるが、眠気をこらえて起きていただけで偉くもなんともない。

 

そもそも、他の議員の質問などは聞く必要がないのである。台湾の議会などでは、質問者と答弁者と、次の質問者しかいない。

 

日本の議会だけ、議員全員が雁首を揃え、市長始め部長級が雁首を揃えている。一日中押し黙ってただ座っているだけの人間が山のように雁首を揃えている。

 

何が無駄かと言えば、居る必要のない人間が無駄に座っていることが無駄なのである。無駄なことをしているのだから眠くなって当然である。

 

その場にいなければヤジを飛ばすことが出来ないではないか、と思う人がいるかも知れない。しかし、ヤジは不規則発言であり、不規則発言は会議規則で禁止されている。不規則発言は議長から制止され、それでもやめなければ退場を命じられる。

 

居眠りは禁止されていない。どれだけ熟睡しても議長から制止されることはない。退場を命じられることはない。

 

居眠りは完全にルールに適応しているのだ。それでも居眠りが許せないというのは報酬が発生していると市民が思っているからである。では、起きている議員は起きているというだけで報酬に値するのだろうか?

 

などと、挑発的なことを書いたが、市民感情として議会中に寝ているのが許せないのはよくわかる。

 

隠し撮りされたのでは仕方がない。(多くの議会でプレス以外の記録は禁止されている)しかし、テレビで放映されているのは、プレスが入っていることが分かっている議会である。せめてプレスが撮っているときくらい起きていればいいではないか。

 

プレスが入っているのに寝る議員は、市民感情が分からないという理由で、やはり腹を切るべきである。

三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜 を再び観た

四年前、映画館で観たのだ。

四年前のレビューはこちら↓

三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜 観てきた 1900円の価値はある! - 文学・文具・文化 趣味に死す!

 

 

 

今回はAmazonプライムで観た。改めて四年前の自分のレビューを読んだら、なるほど、映画館で観た興奮冷めやらずといった感じである。

 

映画館も良かったが、この映画はアマプラで観るのも良い。

いろいろ考えさせられるから、そのたびに止めたり、戻したり、他の資料に当たったりしながら、倍くらいの時間をかけてみた。

 

結局、三島が死んで54年経とうとするが、日本は何も変わっていない。54年どころか、三島が死ぬ前から変わっていないのだろう。戦前は知らぬが、戦後79年間、この国は変わっていないのではないだろうか。

 

映画の中に出てくる、「国家の運命と自己の運命が重なる陶酔感」というものは、戦後社会にはない。

 

しかし、当時(1969年)の若者は元気である。共産革命が起こるかも知れない、と多くの人たちが思っていた。それだけの事件は起こしている。今とは雲泥の差である。政治に何をそこまで期待していたのか、想像が出来ない。

 

ゲバ棒でぶん殴って、火炎瓶を投げつける価値のある政治が今は存在しない。彼らが何を期待していたのか、という問いは、我々は何を諦めてしまったのか、という問いと同じではないだろうか。

 

政治の腐敗は続いているが、巨悪というほどのにも思えない。わたしは多くの政治家を知っているが、彼らは出来れば国民のために働きたいと思っている。善いことをしたいと思っている。ただし、仲間内の調和を乱さず、預金の額が減らない限りに於いてである。そして、心が痛まない程度のチョンボをする。

 

しかし、チョンボをするのはなにも政治家に限らない。叩いてひとつの埃も出ない人間などこの世に存在するのだろうか?

 

わたしは正義面している人間を見ていると虫ずが走る。三島は討論会の中で「キチガイ」だの「殺す」だの連発している。現代では通用しないだろう。現代では正義面の連中が黙っていない。

 

もし、三島の時代よりも現代が悪くなっているとすれば、NGワードが増えすぎて、言語が機能しなくなってしまったということではないだろうか。芥氏的に言えば「人間と人間の間に媒体として言葉が力があった時代の最後だとは思っている」となる。

 

さて、表面だけ綺麗に塗っている現代であるが内蔵の腐敗具合は以前と変わらぬ。しかも、腐敗を隠そうと表面を塗り続け、危ない言葉は飲み込み、正義面を終始スマホで確認している。この調子だと、百年後も今と変わらぬだろう。

1秒先の彼女 を観た

 

 

コメディである。ラブコメである。不器用なラブコメ

 

彼女は何でもかんでもちょっと早い。徒競走でもフライング、ダンスでもワンテンポ速い。

 

逆に男の方はワンテンポ遅い。

 

ネタバレ有り。

 

彼女はワンテンポ速いので、ある日その付けが回って1日が失われてしまう。

逆に、ワンテンポ遅い男は1日分の貯金? 貯時間が出来て、他の人たちが止まっている間、1日を過ごすことが出来る。

 

つまらなくはないが、大して面白くもない。わたしは中国語の学習がどれほど進んだか試す意味もかねてときどき中文の作品を観ている。

 

対して面白くないが、男女の設定を入れ替えて日本でリメイクされている。最後、男は格闘するのであるが、日本版は女が格闘するのだろうか?

 

元々の原題は「消失的情人節」である。失われたバレンタインデー、である。ちょっと魅力に欠けるタイトルだ。