文学・文具・文化 趣味に死す!

小説家 星香典(ほしよしのり)のブログ。小説、映画、ファッション(メンズフォーマル)、政治、人間関係、食い物、酒、文具、ただの趣味をひたすら毎日更新し続けるだけのブログ。 

大塚家具にあったすごい椅子たち

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まずはセイルチェア。実に座り心地が良い。この背もたれはマジで良い。そして、アーロンチェアほど高くないのである。仕事用に普通に一台欲しくなった。

 

 

ハーマンミラー セイルチェア ブラック 高さ調節アーム AS1YA23HA N2 BK BB BK BK 9115

ハーマンミラー セイルチェア ブラック 高さ調節アーム AS1YA23HA N2 BK BB BK BK 9115

 

 

 

 

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次に、お馴染み、イームズ。アルミナルチェア。これも名作中の名作だ。

大塚家具にあったのはもちろんハーマンミラーのだから鼻血がとまらなくなるお値段だが、これはリプロダクトがある。

 

 

 

 

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そして、フェラーリチェア。お値段1,870,000円。

いらんわ。

 

 

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最後に。入口付近にあったピーコックチェア。クジャクの羽だから。

期待しないで座ったら、これが実に座り心地よし。家に置いたら邪魔だけどな。

こいつはリプロダクトあります。

 

 

試座だけならタダである。家具好きならば一度は行ってみて損はないお店だ。

お勧めである。

 

 

フィン・ユール FJ45 NV45 NO45 についに座った!

諸賢、台風は大丈夫であったろうか。

長野や静岡では被害が出ていると聞く。

被害に遭われた方に心よりお見舞いを申し上げる。

 

かくいうわたしの家も台風直撃死亡フラグが立っていて、買いだめや窓に養生テープを貼ったり、停電用に懐中電灯を集めたり色々したわけであるが、天気予報アプリを見ていると、あれよあれよという間に、風速も降水量も減っていって、蓋を開けてみればメダカの水槽に落葉が数枚落っこちただけだった。

 

さて、本題。台風が来る前に新宿に行った。というのも、結局Kチェアにしようと思ってカリモク60に行きたかったのである。

 

しかし、決心が付かず、新宿をうろうろしていると、大塚家具があるではないか。ハンス・J・ウェグナーのGE290などが展示してあったので、冷やかしで入ると……

 

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じゃ、ジャジャーン!! なんと、憧れのフィン・ユールのNV45があるではないか!

これはFJ45だが同じものだ。

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実は、FJ45はジェネリック家具として売り出されているので、安く買うことが出来るのである。故に、わたしの候補に入っていたのだ。

 

さっそく遠慮なく試座する。

 

やっぱり、、、、、、、、、、、、、

 

デカい……

 

靴を脱いで座ってみた。深く腰掛けると若干足が浮いてしまう感じだ。

 

前にも書いたが、デンマーク人の平均身長は180cmである。180cm用に作られた椅子が座り良いわけないのである。ちょっと考えればわかることである。

 

で、わたしの選択肢からNV45は消えたのでありました。

 

さらば、憧れの椅子。

 

大塚家具にはこのほかにも面白い椅子がたくさんあったので、明日紹介する。

 

リプロダクト、ジェネリックの45はこちら。

アームの優しい曲線美 No.45 イージーチェア 1人掛けの詳細 | ユアデザイナーズ

 

store.shopping.yahoo.co.jp

父親 荒畑寒村 を読んだ。感想 レビュー

 

 ↑これに納められている。しかも、一番最初の作品だ。

 

荒畑寒村社会主義グループに属しており、投獄されたりしていた。その寒村を、父親の視点で書いた作品である。ということは、自分の反社活動が父親に迷惑をかけていたこと、そして、妻が献身的に支えてくれていたことを理解していたと言うことだ。

 

こんな革命家ありだろうか?

 

自分の革命活動を客観的に見て、客観的に心配したり否定したりする。そんな革命家はあり得ないだろう。

 

寒村は革命家になりきれなかった。だから、文学者になったのか、そもそもが文学者故に革命家になれなかったのか。

 

文学的思考というものは、徹底して物事を相対化して、客観化して、かつ、ぶっ壊して、再構築する作業がある。

 

その過程で、革命はすでに為されているか、現実の革命は意味をなくしている。

 

この作品がなんとなく後味悪く、かつパッとしないのは、そういった逡巡が作品のなかに持ち込まれているからかも知れない。

 

1915年の作品である。こういった作品を読むと、日本語や日本人の感性が、どこが同じでどこが違うのか、発見する楽しみがある。ほとんど同じなのだが。