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Yoshinori Hoshi Official blog

小説家 星香典(ほしよしのり)のブログです。

コーヒーは本当に炒りたて、挽きたて、淹れたてが旨いのか?

08 その他雑感

一部の喫茶店や焙煎所で飲むコーヒーは旨い。それを家で再現するのはなかなか難しい。なぜだろうか。

コーヒーは淹れたて、炒りたて、挽きたてが旨いとされるが、実は過ちである。まず、淹れたては熱くて飲めたものではない。湯気が立ち上り香りもなにもあったものではない。詰まった鼻を治すにはちょうどいい。5分ほど置いて程よい熱さになったとき、初めてコーヒーの味と香りがする。

炒り立ても雑味が目立つ。どこの焙煎所で聞いても、必ず2・3日後が一番美味いという。豆によってはもっと寝かせてもいいという。実際、2・3日後から一週間くらいが一番旨い。

問題は挽きたてである。世の中には挽きたてが一番旨いと思って、ミルで挽いて淹れているものも多い。わたしもその一人だ。だが、色々調べてみると、どうも挽きたては必ずしも旨くないようだ。別荘にいるときはミルがないので店で挽いてもらっている。その一杯目は実に旨い。二杯目から味がだんだん落ちていく。気のせいではなかったのだ。

ネットには、挽いてしばらく待ってから、1時間まってから、喫茶店では一日に出す予定のコーヒー豆を朝に挽いてしまう、などの情報があった。つまり、挽きたてよりも、挽いてしばらく置いておいた方がいいというわけだ。

わたしは陶器製のドリッパーを愛用しているが、先日100均で安物のドリッパーを二つ買ってきた。飲み比べをするためだ。

結論から言うと、豆によって違った。家にあった豆は、トラジャ、キューバ常磐ブレンドの3種類。トラジャとキューバは炒ってから一週間ほど経っていた。常磐ブレンドは二日目だ。

トラジャは挽きたての方が香りもよく、味もしっかりしていた。しばらく置いたものは薄まった味がした。

興味深いのはキューバ常磐ブレンドだ。どちらも、挽きたては酸味が強く奥の味を邪魔していた。舌の表面が酸味で覆われて、コーヒーの深い味が届かない感じだ。圧倒的に挽いてしばらく置いたものの方が好みであった。バランスも整っている。

香りは、キューバは挽きたての方が香りはよかった。常磐ブレンドは香りに違いはあまり感じられなかった。

ただ、過ぎたるは及ばざるが如く、放置しすぎた粉が旨くないのは言うまでもない。わたしの経験だと、1時間から3時間くらいが目安だろうか。

ダンディズムの定義を無謀にも試みる

15 ダンディズム

ダンディズムとお洒落は同一視される傾向がある。同一視されないまでも、お洒落はダンディズムの一部だと思われている。実際は、ダンディズムとお洒落は間逆である。ダンディズムとお洒落には一切の関係がない。

お洒落は所詮世間への迎合である。悪く言えば自分をよく見せるための諂いである。ダンディズムは世間を超越しなければならない。ダンディズムを実践しているものを見て、もしお洒落に感じたとすれば、それは単なる偶然か、もしくは、その実践が失敗しているかのどちらかである。

ダンディズムとはもちろん外見を伴うものであるが、その外見にはある精神が必要である。ヤクザものは一般人に比べればダンディズムに親近性があるかもしれない。ただ、犯罪者は駄目で、とくに、利得を目的とした者はどれほど着飾っても精神がダンディズムではない。

では、死を厭わぬイスラム系のテロリストはダンディズムか。あまりに思想信条が過剰なものはダンディズムとは言えない。どこかニヒルな、シニカルが要求されるのがダンディズムである。

と考えると、利得的、営利的、確信的、合理的なもの。これらはダンディズムから離れているものと思われる。ダンディズムとは非営利であり、非合理なものである。

非合理とは、それをやっても儲からないし、地位も名誉も利得も付いてこないし、主義主張を見せつけるものとは無縁でなければならない。世間になにも求めないし、世間からなにも得ようとしないし、世間になにも訴えようとしないもの。そんな存在はと問われて思いつくのは乞食である。

乞食はダンディズムか? あり得ない。

では、やはりダンディは世間を意識しないフリをしているだけだろうか。非合理を装いつつ合理的計算を働かせる存在でしかないのであろうか。

武士はなにゆえに武士なのか。精神でも帯刀でもなく、武家という決められた階級に過ぎないのであろうか。日本人とはなにか。日本国籍を有するものである。これは分かりやすい解であると同時に、だれもそんな回答に興味を示さない。

ダンディズムにも資格や免許を与えたらいいだろうか。しかしそれは、ダンディズムから最も離れたものに違いない。

落合正勝礼賛 ダンディズムの本質は外見や文体である

15 ダンディズム

わたしは衒学家である。しかも、人前で話さなければならず、そういう場合は謙遜してても場が白けるので遺憾なく衒学っぷりを披露する。有名な学者の名前を羅列すると箔が付く。ジョン・ロールズ、アンソニーディケンズミシェル・フーコーアリストテレス三島由紀夫柄谷行人、等々。古今東西引用する。もちろん、フーコーを読んだことなどない。孫引き玄孫引きである。

普通の人は真に受けないが、たまに真に受けてか、それともからかい半分か、目を輝かせて質問してくる人もいる。だいたい、そういう人も衒学家だ。色々な学者名や書籍名を述べ、

「ところで、最近はどのようなご本をお読みですか?」

と聞いてくる。
この質問は結構困る。古典や名著と言われているものなど、例え読んだとしても必要な部分だけか斜め読みだ。

かといって、正直に「落合正勝を読んでいます。その流れでハーディ・エイミスも読みましたけどね」などと答えたら、そこで会話は終了するだろう。

だが、ここ一年ほど、真面目に耽読した作家は落合正勝だけだ。

そこで、改めて落合正勝のなにが好きなのかを考えてみた。こちらも、服装に対する造詣が深まるにつれて、氏の主張を鵜呑みにはなかなか出来なくなってきた。しかし、好きなのだ。とくに今読んでいる「男の服装、お洒落の基本」は白眉だ。

落合正勝の本は全部好きかと問われれば否である。中には冗長なだけでちっとも面白くないものもある。

では、面白いと感じるのはどこか。文体である。硬質で断定的な文体こそ、エレガントでありダンディズムに通じると分かった。

例えば、ズボンは島村、シャツはgu、しかも両方オーバーサイズ。足下はクロックスの偽物で決めている紳士が、エレガンスとダンディズムについて語ったとしたら、その中身を吟味する前に噴飯してしまう。文体も然りで、

「やっぱ一番クラッシックな靴って、黒くてなんか鈍めに光っちゃったりしてる、つま先んとこに棒が入ってるストレートチップってやつかな」

なんて文体はちっともエレガントでもなければダンディでもない。

ダンディズムとは多かれ少なかれそういうところがある。我々は本質という単語に、形而上のなにか、目に見えないなにかを要求しがちである。しかし、エレガンス、ダンディズムは本質の大部分が視覚化されているのだ。

そして、エレガンス、ダンディズムを活字にするならば、文体こそ視覚の部分を担っている。お洒落に関する本は多い。だが、どれも落合氏ほどの説得力がないの何故か? エレガンス、ダンディズムをイメージできる文体をもっとも上手く書いたのが、わたしは落合正勝ではなかろうかと思っている。

 

 

男の服装 お洒落の基本

男の服装 お洒落の基本

 

 

amazonからも発売! かぐや姫をすきになったら

01 news

拙著新作、「かぐや姫を好きになったら」amazonからも発売されました。

電子書籍のプラットフォームは星の数ほどありますが、やっぱりamazonが一番使いやすいかな。

というわけで、毎度のお願いで恐縮ですが、試し読みだけでも! 無料サンプルを送信して読んで下さいm(_ _)m

 

Kindleがなくても、Kindleアプリを入れれば、スマホでOK!

 

 

かぐや姫を好きになったら

かぐや姫を好きになったら

 

 

 

あらすじ

援助交際をしているようだったり、跳び蹴りをくらわせてくれたりするけれども、僕は彼女のことが好きだった。

褐色の妹とは気が合った。二人乗りの自転車を限界までこぐ。僕の背中にしがみつく妹。僕たちは、血の通った兄妹よりも兄妹みたいだった。

彼女と妹は僕の世界の大切な構成要素だ。その二つが欠けてしまうとき、僕は僕の世界を維持できるのだろうか? 煙の出るチョコレートでも、発酵した麦茶でも、この気持ちを癒せないのだとしたら、想い出や感情も消してしまったほうが幸せなのだろうか?

「ショパンかぁ」と嘆息する詩吟が似合う老紳士

08 その他雑感

ちょっとしたピアノリサイタルに行った。何曲目かにピアニストが、「次はショパンを弾きます」と言ったら、私の二つほど隣にすわっていた七十くらいの紳士が「うむぅ、ショパン。……ショパンか」と言って頭を抱えてしまった。

紳士は実に日本的な風貌で、クラシック音楽よりは詩吟が似合う感じだった。彼がショパンと言うだけで、なんとなく場違いな印象を受けるのに、ショパンかぁ、と嘆息して頭を抱えてしまう。いったい日本的紳士とショパンとの間で何があったのだろうか?

ショパンはなんとなくチャラい。恋愛的チャラさがショパンで、チャラい中にも愁いが同居する。恋愛的愁いだ。そんな恋愛的チャラさと愁いと一切無縁であるべき日本的紳士が、ショパンとつぶやき頭を抱えたら、想像が膨らんでしまう。

では、私がショパン的かと問われれば、完全に否である。私もショパンとは無縁で、上記のような一辺倒の偏見しか持ち合わせていない。そんな私がショパンを聴いている姿を見て、さて、日本的紳士はどんな想像を膨らませたであろうか。sy

拙著新作! かぐや姫を好きになったら 発売開始!

01 news 02 小説作品

ついについに、拙著新作、「かぐや姫を好きになったら」発売されました!

コピーをもう一度紹介。

 


援助交際をしているようだったり、跳び蹴りをくらわせてくれたりするけれども、僕は彼女のことが好きだった。

褐色の妹とは気が合った。二人乗りの自転車を限界までこぐ。僕の背中にしがみつく妹。僕たちは、血の通った兄妹よりも兄妹みたいだった。

彼女と妹は僕の世界の大切な構成要素だ。その二つが欠けてしまうとき、僕は僕の世界を維持できるのだろうか? 煙の出るチョコレートでも、発酵した麦茶でも、この気持ちを癒せないのだとしたら、想い出や感情も消してしまったほうが幸せなのだろうか?

 

ぜひ、ぜひ、試し読みだけでも読んでいただけたら幸甚!

 

電子書籍はほんと様々なところから様々なフォーマットで発売されてます。とりあえず、発見できたところのリンク張ります。

 

honto.jp

bookstore.yahoo.co.jp

7net.omni7.jp

galapagosstore.com

bookwalker.jp

book.dmm.com

通信の発達は旅行の本質を変えたか?

11 社会や世間について

旅行の目的は気分転換なのだから、仕事のカバンがいくら使いやすくて、中身を移す手間もいらないからといって、そのまま持っていくべきではない。

せめてカバンくらい変えたいものである。変えられない物もある。眼鏡や財布や時計など。中でもたちが悪いのは携帯だ。携帯はハードだけではなくソフト面も休暇に仕事を持ち込む。偉大なる飛行機モードにすればいいが、なかなか飛行機モードを貫くには度胸がいる。いっそのこと、家に忘れるというのも手ではあるが、それはそれで落ち着かないし、一緒に行く連中と連絡を取ることも出来なくなる。

そうすると、気分を変えるには服飾品くらいしかないのである。靴を変え、服を変え、カバンを変えるくらいしか有効な手段がない。

テクノロジー、就中、通信の発達は人類に多大な便益をもたらしたが、気苦労が増えたのは間違いない。通信革命以前と以降では旅行の本質が変わったように思う。旅行は世俗の雑事からのがれることが出来たが、通信の発達のせいで旅行地においても雑事がつきまとう。

これは現代人の精神を蝕むものである。ということで、とりあえず夜まで飛行機モードにすることにした。