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Yoshinori Hoshi Official blog

小説家 星香典(ほしよしのり)のブログです。映画、ファッション(メンズフォーマル)、政治、人間関係など、思うところをほぼ毎日更新してます。

星新一賞受賞作を読んでみた

03 小説に関する思考

hoshiaward.nikkei.co.jp

 

ちょうど去年の今頃、SFにはまっていて、星新一賞でも出そうかと考えていた。結局出さず仕舞いで、久しぶりにサイトをのぞいてみたら、受賞作が発表されていた。しかも、アプリをインストールしたりするのは面倒くさいが、無料で受賞作が読めるので早速大賞を読んでみた。

以下ネタバレ。

実にシンプルで分かりやすい作品だ。製品のレビューを通じて、人類の衰退が描かれている。そして、最後にどんでん返しの落ちもついている。わたし的にはあの落ちは蛇足のような気がする。人類が自滅するだけで十分だったのではなかろうか。

それだと、誰が製品のバージョンアップをしているのかとか、矛盾が生じることになる。

うーん、難しい。

日本には超一流アパレルブランドがないという。

日本には超一流アパレルブランドがないという。

toyokeizai.net

面白く読ませてもらった。でも、これは仕方のないことであり、日本で超一流アパレルブランドを作るにはもう少し時間がかかると思う。

というのも、現在のアパレルが、エルメスやヴィトンが作り上げた伝統の上にあるのだから、なかなか東洋がそれらに加わるのは容易ではない。日本に限らず、アジアに超一流アパレルブランドがあるだろうか。

超一流アパレルブランドがヨーロッパに集中しているのは、やはり、ヨーロッパが発祥だからだ。あと100年くらい経てばこの状況は変わるかも知れない。超一流懐石料理屋が日本にしかないのと同じ理由だ。

毎度例に挙げて恐縮だが、HERZなどは日本のブランドとして成長するだろう。ただ、ブランド料をプラス200%くらい上乗せされるとたまらない。それなら、知る人ぞ知るメーカーで十分だと思う。

わたしは本物志向が高じてくれば、無駄なブランド料は今後なくなると考えている。ブランド価値とは安心と見栄であり、安心は情報で補うことが可能である。ネット社会の中で情報を取得することは容易なので、そうすると、ブランドの安心感という価値は相対的に下がる。

見栄も情報化の中で、ブランド料の不遜すぎる搾取に人々がそっぽを向き始めたら、見栄は見栄として機能しなくなり、愚かさの看板に成り下がる。すでに、全身ブランド尽くめのものは滑稽である。

ブランドがブランドとしての価値を提供するならば、そこでしか手に入らない希少性と独自性に特化するしかないだろう。身もふたもない言い方をすると、そもそも超一流ブランドを創出することは可能か? またする必要があるのか、という疑問がある。

レクサスは無理矢理ブランドを創出したわけであるが、あれは車という分かりやすい性能があってのことだと思う。アパレルに性能を求めるのは難しい。服に性能を求めるとヒートテックみたいなことになってしまう。

SEIKO、とくにグランドSEIKOはかなりブランド化に成功していると思う。さっきHPを見てきたら、初代GSの復刻をプラチナケースにして、お値段320万円也。

国家や社会にも躁鬱があるのではなかろうか

11 社会や世間について

人間誰でも躁鬱が訪れる。その振幅の大きさや、長さは人それぞれ違うだろう。ホルモンバランスだったり、日々の出来事だったり、理由も様々だろう。もっとも理由は後付けされたものがほとんどで、本当の理由は分からない。分かれば事前に処置できて躁鬱をコントロールできるだろうが、そんなすべを我々は知らない。人生における躁鬱の波があるように、社会にも、国家にも躁鬱の波があるのではないかと考えた。

というのも、この社会ではイデオロギーが優位に働く時期と、現実が優位に働く時期がある。例えば、第二次大戦前後はイデオロギー優位の時代だったのではなかろうか。ゆえに、1億層玉砕というイデオロギーが機能した。戦後まもなくも同様で、平和憲法を守るためならば喜んで我ら滅びん、という思想が横行した。山口瞳の、

「人を傷つけたり殺したりすることが厭で、そのために亡びてしまった国家があったということで充分ではないか」「もし、こういう(非武装の)国を攻め滅ぼそうとする国が存在するならば、そういう世界は生きるに価しないと考える」

端的にそれを表していて、三島の言う精神的な文化のために現実的文化は消滅してもかまわない、という思想は、戦後も受け継がれるのである。

しかし、時代は流れ、こういったイデオロギー的左翼思想は失われた。左翼は賃上げとか、権利とか、より実利的な路線を取るようになった。

それが近年、再びイデオロギー的な思考が強くなってきているように感じる。

わたしは最初、社会が豊かになると、現実的な思考となり、社会が貧しくなると、現実の中で達成できない幸福をイデオロギーに求めるのではないのかと考えたが、今の先進国にそれは当てはまらない。日本を含め、今の先進国は豊かである。これを豊かでないとしてしまったら、過去の人類の暮らしはいったい何だったのか。

豊かさ、貧しさ、希望、絶望、それにイデオロギー的と現実的が左右されないのであれば、それは、普段の生活の中で訪れる理由の分からない躁鬱にどこか似ているような気がするのだ。

最近のこのだるさと焦りはよもやカフェイン中毒ではあるまいや?

18 飲食について


カフェインの安全な摂取量は一応決まっているらしい。


このサイトによると

 

tokuteikenshin-hokensidou.jp


一日当たり400mg未満にすべしとのこと。
普通のコーヒー一杯200mlには80mgのカフェインが入っているらしい。しかし、わたしのドリップコーヒーはもっちょっと濃いめに入れているはずなので、一杯100mgは入っているだろう。そして、一日に四杯以上飲んでいる。これはまずいかも知れない。

というのも、カフェインの弊害である、頭痛、イライラ、倦怠感、焦燥感、不眠、などなど、頭痛以外は当てはまるからだ。昔はそんなに倦怠感と焦燥感はなかったような気がする。最近はいろいろな豆を買ってきて飲み比べとかやっているので飲み過ぎてしまっているのだ。

さらに、悪いことにコーヒーが生活のリズムのようになってしまい、体が欲さなくとも飲んでしまうことが多々ある。これはピンチである。

さんざんコーヒーの蘊蓄をたれてきた当ブログであるが、すこしコーヒーの摂取量を減らそうかと思っている今日この頃である。

モノへの憧れ

08 その他雑感

ものへの憧れが失われた、と言われている。確かに昔のものには、憧れがあったと思う。それはまた実用的でもあった。少なくとも実用の度合いは高かった。

例えばそれは、腕時計であり、万年筆であったり、車であったりする。しかし今、最も実用性の高いものといえば、スマホやノートパソコンだろう。ではスマホやノートパソコンが憧れの対象になるかと言うと、それは難しい。

スマホやノートパソコンはすぐに時代遅れになってしまう。時計や万年筆ももちろん時代遅れになる。しかし、その速度はスマホやノートパソコンに比べればはるかに緩慢である。スマホやノートパソコンの時間を人間は把握できない。ひきかえ、時計や万年筆に時間は人間が共有できるものともいえる。

時間を把握できない、未来の発展を把握できない、未来に対して期待が高いということだ。だがそれは同時に、現在に対する充足度の低さを意味しているのではないだろうか。未来に対する憧れが高まれば高まるほど現在はチープになっていく。

コートを洗った

08 その他雑感

今日は天気が良かったので、コートを3着洗った。ウールのコートと、ポリエステルのトレンチコート、ユニクロのダウンだ。クリーニング屋に出すと1,000円近く取られるのでそれはもったいない。脱水をしっかりして、3時間ぐらい干しておいたらほとんど渇いた。コートはよく汚れる。特に気にしないで着ているというせいもあるかもしれない。俺ん家は黒いコートなので汚れが目立たないが、よく見るとシミのようなものがついている。襟首も汚れがたまり変にテカる。こういったものも洗えばきれいに落ちる。

 

わたしはウール100パーセントの背広も家で洗っている。洗剤もその他衣類を洗うのと同じ普通の洗剤を使う。もちろん表示は、家洗い禁止になっているが、アイロンをかければ元通りになる。これは決して人にはオススメすることではないし、やってみてうまくいかなかったからといって文句を言われてもどうしようもない。

 

もうコートの時期も終わり。そろそろ春物を出そうかと思っている。お気に入りの麻のジャケットが着られる時期になった。去年は淡い色の麻のジャケットを作ったので、今年はコットンか麻でダーク系のスーツを作りたいと思っている。

新作を書いている

03 小説に関する思考

久しぶりにひとりのんびりホテルライフ。チョコを食べながらエビスの新作、華みやびを飲んでいる。華みやびは漢字にしなくて正解である。華雅ではさっと読めない。

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最近よくあるフレーバー系で、鼻腔に麦の香りが広がる。好き嫌いが分かれるだろう。わたしは好きだ。たまに飲みたくなる味だし、今の気分によく合っている。

さて、新作を書いている。この季節は創作したくなる季節。六月くらいまで続く。去年もこの期間に短編を一本書いた。脱稿してどこに送ろうか考えているうちに、忙しさに飲み込まれて、存在を忘れてしまっていた。

今書いているのは長編である。どのくらいの長さになるか分からない。とりあえず、書き進めている。創作は楽しい。創作に戻るたびに、楽しさを思い出す。

創作は夢を見るのに似ているかもしれない。創作はすべてを考えて作っているわけではなく、むしろ、意図的な部分などほんの一部で、物語の流れが作品を編み上げる。作者は物語を追いかけて、書き留めるのみ。

物語を夢想する、この表現が近いかもしれない。作品を作っている間は白昼夢をみているようなものかもしれない。

というわけで、たまには自著の宣伝も。

 

 

かぐや姫を好きになったら

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死に神の死に頃?春と冬?

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ペンタゴンの地下見取図

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幼なじみに弔鐘を

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