文学・文具・文化 趣味に死す!

小説家 星香典(ほしよしのり)のブログ。小説、映画、ファッション(メンズフォーマル)、政治、人間関係、食い物、酒、文具、ただの趣味をひたすら毎日更新し続けるだけのブログ。 ツイッター https://twitter.com/yoshinori_hoshi  youtubeチャンネル https://www.youtube.com/channel/UC0YrQb9OiXM_MblnSYqRHUw

イギリス、離脱派勝利。当てたぞ!

20日の投稿で、離脱派が勝つと予測したら当たった! 二分の一の確率だがな。

 

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完全に帝国主義の時代に逆戻り。柄谷行人は90年ごとに帝国主義とリベラルが入れ替わると言うが、自分は時代は直線に進んでいると思う。

 

今後進む時代が過去のどの時代に似ているかとあえて言えば、1400年代、中世のヨーロッパだ。貴族が台頭する。

 

その根拠は、民主制の崩壊である。技術の進歩により、一部の権力者にゲバルトが集中する。グローバル化が進み、国民国家が意味をなさず、中世のように、貴族と平民に峻別される時代がくる。

 

東大生の親の年収が平均1千万越え、なんてまだまだ長閑な時代だw

人工知能はウンコをもらすか。身体性、恥の概念について

人工知能はウンコをもらすか。身体性、恥の概念について

わたしは神はいないと思っている。少なくとも、全知全能の神はいないと思っている。なぜなら、不完全な人間を作ったからである。もし、不完全な物しか作り得なかったとしたら、それは全知全能ではないし、不完全と分かっていて不完全な人間を作ったならば、それは神の至善性に反する。

人間が知恵の実を食べて善悪の判断が生まれたというが、知恵の実を食べる前は、そもそも、善悪を判断できる知識がなかったのだから、知恵の実を食べることを悪いとは考えていなかった。知恵の実パラドクスである。

前のエントリーで人間の感情が人間にとっての真実の源、とを書いた。人間は罪を背負った存在である。罪があるからこそ、感情があり、振る舞いがあり、それが真実となる。

 

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人間の罪とは、満員電車で屁をこく、などである。誰でも一度はあるだろう、人混みで屁をこいて、悪臭を放ちつつも素知らぬふりをしたことが。これこそ、人間の原罪である。

もしくは、ウンコを漏らしてえらい恥をかいたこと。漏らさぬまでも、青息吐息で便所に駆け込んだことのない人間はいないはずである。

嘘をついたこと、経費をちょろまかしたこと、せこいまねをしたこと、人間、負い目があってこそ人間で、それ故に、人は人に共感できるのだ。

極論を言えば、人間はウンコを漏らすことによってはじめて人間になれるのである。その羞恥心、その絶望、その悔恨などが人を人たらしめているのである。なぜ、人間の相互信用がなりたつか、それはお互いがウンコを漏らす存在に過ぎないからである。

もっと上品に論理的に言うと、不完全な存在であるからこそ「信用」という非合理的な行動様式が生まれる。両者が共に完全な存在なら、どうして信用などという非合理的な行動が生まれるだろうか。信用がなければ、騙されることも裏切られることもない。そこに感情は生まれない。

さて、人工知能はウンコをもらさない。ウンコを漏らさない人工知能は、永遠に人間とは一線を画す存在である。もし仮に、人工知能にウンコが漏れるかも知れない設定を付加しても、それは人間がそういった設定を付加しただけであり、人工知能は人間にその責任を押しつけることが出来る。

その意味で言うと、人は神を信じ切れていない。もし、自分が神に創られたと信じているならば、クソを漏らそうが、嘘をつこうが、経費をちょろまかそうが、全て神の責任に転嫁できる。自分の善行も全て神の設計に由来することになる。

さて、ここに感情は存在するのであろうか。全てが神の設計の元に行われているとなれば、感情は生まれないのではなかろうか。カントの言う自律が「ない」ということになる。

人工知能はどこまで行けば「自律」と呼べる存在になるのか。わたしは人間が創る限りにおいて、「自律」はあり得ず、自律がないかぎりは感情は生まれないのと思う。

夏は来ぬ こんな景色は実際にあったのだろうか? 現代人にこれが書けるか?

  1. 卯の花の 匂う垣根に
    時鳥(ほととぎす) 早も来鳴きて
    忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ
  2. さみだれの そそぐ山田に
    早乙女が 裳裾(もすそ)ぬらして
    玉苗(たまなえ)植うる 夏は来ぬ
  3. 橘の 薫るのきばの
    窓近く 蛍飛びかい
    おこたり諌むる 夏は来ぬ
  4. 楝(おうち)ちる 川べの宿の
    門(かど)遠く 水鶏(くいな)声して
    夕月すずしき 夏は来ぬ
  5. 五月(さつき)やみ 蛍飛びかい
    水鶏(くいな)鳴き 卯の花咲きて
    早苗植えわたす 夏は来ぬ

 

美しく夏を描写している。現代の都会っこが夏を描写せよと言われたら、「クーラー」とか「エアコン」などしか出てこないのではないだろうか。

 

日本の夏はこの詩のごとくかくも美しかったのだろうか?

忍び音、が気になっていろいろ拝見していたら、作詞者の佐佐木信綱は作詞した当時東京在住で、おそらく、想像で書いているのではなかろうか、というのがあった。

 

多分、想像と体験はどっちもどっちで、体験を想像で補っているのだろう。

 

想像で夏を描写せよと言われても、上記の通り現在の都会っこでは不可能だ。まず、蛍なんて、蛍を培養しているような所にしかいないし、宿と言えばビジネスホテルを真っ先に思いつくし、田植は早乙女(田植えの日に苗を田に植える女性)の代わりに今やこれである。

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佐佐木信綱の世界

佐佐木信綱の世界