ウクライナでドンパチが始まった。
さて、日本の9条で本当に平和が保たれるのであろうか。
わたしは、9条は文言と現実が乖離しているので、その乖離をなくすべきだ、と思っていた。
具体的には、自衛隊の存在を認めるなら、陸海空の戦力の保持を認める。
戦力の保持を認めないなら、自衛隊は解散すべき。
この二択である。つまり、国家は憲法通りにあらねばならない、という立場だった。
しかし、コロナ騒動や、ウクライナのドンパチを見ていて、憲法の意味というものを考えた。
憲法は国民の安寧のためにある。たとえば、9条は日本国と諸外国の平和のためにある(少なくとも建前は)わけである。目的は平和の実現である。
この目的を実現するため、憲法の文言がどうあるべきか、というのが重要なのではないだろうか。
仮に、
■日本の自衛のために自衛隊の存在を憲法に明記したところで、ドンパチを初めてしまったら意味が無い。
■戦力の保持を認めずに自衛隊を解散しても、どこも攻めてくる国がなければそれでいい。
この理屈で行くと、
■憲法と現実との間が乖離していたとしても、平和が実現出来るのであればそれでいい。
となる。
しかも、憲法にどれだけしっかり書いたところで、それを守るのが人間なのだから、正しく書かれたとおり、憲法意志のとおりに行動するとは到底思えないのだ。
実際に、解釈改憲、解釈護憲が横行している昨今である。
どんなに早いスーパーカーでも運転手がど素人では碌なタイムは出ない。最高の食材でも味覚音痴が料理したら食えたものではない。
あまりにも当たり前すぎて言うのも馬鹿馬鹿しいが、政治家と官僚にまともな人間を選ぶ。国民が、もう少し真剣にまともな人間を選ぶようにならないと、この国の未来はないのではないか。
日本国だけでなく、世界に言えることだ。他国の国民も、もう少し真面目に指導者を選ぶべきである。プーチンや習近平が立派だというつもりはない。ただ、アメリカ、ヨーロッパ、我が国の指導者たちはちょっとレベルが低すぎないだろうか。他国の政治家を詳しく知っているわけではない。我が国に於いては与党だけでなく、野党がさらに終わっている。これは悲劇だ。