わたしは基本的に感動しないし、感動させようとして作られているものには就中感動しない質である。
みんなが「泣けた」という作品で泣いたことはこれまでただの一度もない。
DVDを貸してくれた人が、「感動した? 泣けたでしょ?」
と言うので、
「のび太は相変わらずバカでしたね」
と答えた。
早い話が、アマノジャクなのである。
昔からの読者の方はわかりきっているだろうが、アマノジャクの映画評だと思って読んで頂きたい。
とにかく、のび太のバカッぷりが鼻につく作品であった。
お涙頂戴作品らしいので、そういうのが好きな人はいいかも知れない。
この作品で一番心に残ったのは冒頭のシーンである。
のび太の結婚式の前日。のび太、スネ夫、ジャイアン、出来杉が酔っ払って歩いている。
ジャイアンが、「あぁ飲んだ飲んだ。帰るのめんどくせぇ。出来杉だって結構飲んだだろう?」
と聞くと出来杉は、腕に貼ったシールを示して、
「ぼくはスグサメール貼ったから」
のび太も、「僕も」
と青く光るシールを見せる。
それを見たスネ夫が、
「つまらねぇ奴らだなぁ」
その言葉を継いで、ジャイアンは、
「すぐシラフに戻るなんてよ」
さて、なぜすぐシラフに戻るのがつまらないことなのだろうか?
この台詞に、昨今の飲み会に参加しない若者に対する年配者の不満が凝縮されているような気がする。泥酔状態を共有するというところに、言い知れぬ連帯感が生まれるのは確かである。
酔うというのはある意味、自分を無防備にすることである。無防備な自分を見せることである。無防備を見せ合うことにより、より親密になる。秘密の共有が友情を育むのと同じ原理だ。
世の中には、酒が強い人間もいれば弱い人間もいる。なので、本当に酔っているかどうかは実際関係なく、酒を飲むという行為を以て、酔っていることにするのだ。故に供に酒を酌み交わすのは大事なのだ。
わたしは痛飲した方が喜ばれるような場所では痛飲して、戻ったら吐いてしまう。
話しが変わるが吐く技術は習得して置いた方が何かといい。わたしはもしワクチンが義務化になって、飲み薬で処方されるようになったら、飲んだ後すぐにトイレにでもいって全部吐こうと考えている。ま、飲む振りの練習をしたほうが早そうだが。