わたしは硯に泥砥石をかけるのが好きだ。
全く磨墨しなかった硯が、泥砥石をかけたことにより、不死鳥のごとく蘇った原体験に基づく。
なので、1ヶ月に一変くらいの割合で泥砥石をかけていた。
だが、最近、どうも墨色が悪いような気がした。とくに、仮名用の青墨などを磨ったときに、やけに粒子が粗い。
あと、中古の墨をよく買うのだが、墨の磨面が、わたしが磨る前はキラキラと輝いているのに、わたしが磨るとマットになってしまう。(これは磨ったあとに反故紙でぬぐうのが原因かもしれない)
仮名用の硯は、仮名用の砥石で磨いた方がいいのかもしれない。そんなことを考えていた。
泥砥石で硯面を仕上げると、硯面がざらざらする。わたしはこれを磨墨できる証拠として愛でていた。
だが、仮名用のデリケートな墨をどうやったら綺麗に擦れるか、ネットを渉猟しているうちにとんでもない記述を発見したのである。
それがこちらだ。
要約すると、墨を磨すとされている鋒鋩は槍のようなものでもなく、ノコギリのようなものでもなく、石の粒子だという。その堅い粒子が墨をおろす。
なので、刃物を研ぐようなイメージで泥砥石で鋒鋩を研ぐというイメージは間違いである。実際は、粒子を覆ってしまった膠や煤を泥砥石で取り除く、というのが正解。
「本当に優れた硯は泥砥石をかけなくても永遠に使える」という。その理由は上記の通りだ。粒子の下には、同じ石の粒子があるので、どれだけ硯面が摩耗しようと、金太郎飴のごとく硯面には粒子が現れ続けるからだ。だから、使用後ちゃんと洗っていれば、泥砥石などかける必要はない。
そもそも、もし鋒鋩が槍のようなものだとすれば、泥砥石をかければ槍はむしろ丸まってしまうではないか。ちょっと考えればバカでも分かることである。鋒鋩が摩耗するので泥砥石で復活されるという表現を散見する。砥石というのがミスリードなのだ。もし鋒鋩が摩耗しているならば、砥石をかけることによってもっと摩耗するはずである。
泥砥石をかけることによって柔らかい石を削り堅い石英を表面に出して磨墨出来るようにする、というのも胡散臭い話である。もし、柔らかい石が削れて硬い石英が残るなら、普段の磨墨で石英が残るはずである。
理想的な硯の磨り味に「熱釜塗蝋」なる喩えがある。熱した鉄鍋に蝋を塗るような感触であるという。音もせずに磨れるという。だが、泥砥石で目立てを行えば、必ず引っかかりが出来るし、引っかかりが出来るので音も必ず生じる。
そこで、わたしは仮説を立てた。
もし、石の表面の粒子で磨るならば、硯面を限界までツルツルにしたところで磨墨力は変わらないのではないか。
筆を洗っていると、いつまでもいつまでも、黒い墨液が出てくる。つまり、硯で墨を削らなくても、墨の膠をと煤が分離すれば墨液は得られるはずである。
泥砥石で硯面をざらざらにする必要はないのではないか!?
早速実験である。
まず、泥砥石で研いだ硯面。触ってざらざらしているのが分かる。
今回、泥砥石で研いだ状態、1000番で磨いた状態、8000番で磨いた状態の三種類で実験した。墨も三種類使った。
1000番、1500番、2000番、8000番とかけていく。
8000番までかけると、テラテラと硯面が輝き始める。
その実験結果がこちら。水は5滴。30と書いてあるのは30秒磨墨した。60は60秒磨墨したもの。
ユポ紙でも実験。
この中で顕著に分かるのは仮名用墨の竹園である。拡大した画像を比べよう。
泥砥石が最も黒くなっていることが分かる。しかし、滲み方が全然違う。ユポ紙でご覧いただきたい。
次に丹頂。
まずは半紙。
次にユポ紙。
丹頂ドロ。
丹頂2000番
丹頂8000番。
ドロと1000番だと粒子の細かさが一目瞭然だ。
そして、黒さも変わらない。
つまり、テーゼ
石の表面の粒子で磨るならば、硯面を限界までツルツルにしたところで磨墨力は変わらない。
は真である!
と思った。
だが、
しかし、
普通に墨を磨ってみると…………。
濃墨になるまでの時間が倍以上かかる!
その代わり、墨色は冴えてるし、伸びもいい。だが、本当に時間がかかる。
そこで、2000番、1500番、1000番とヤスリを粗くしていった。1000番でも泥砥石に比べると磨墨力は弱く、濃墨になるまで時間がかかる。まぁ、我慢できる範疇ではあった。
ジフもかけてみた。8000番とあまり変わらなかった。
同じ作業を雨畑真石の硯でも試した。こちらは仮名用なので、8000番で全然大丈夫だ。とても墨が伸びるようになって大成功。
こちらはジフの墨色が素晴らしいのである。使った墨は丹頂。
結論。過ぎたるはなお及ばざるが如し。泥砥石は粗いが、8000番は細かい。