相模原障害者施設殺傷事件で死刑が確定した植松死刑囚であるが、死刑判決を受けた後、「最後に一つだけ」と発言を求めた。
しかし、裁判長により認められず閉廷。植松死刑囚は苦笑して退廷。
いったい彼はなにを言おうとしたのだろうか。なぜ苦笑したのか。
「最後に一つだけ」 植松被告が発言要求、認めず閉廷 [やまゆり園事件]:朝日新聞デジタル
なんとなくこのニュースが頭の片隅に残っていた。
相模原障害者施設殺傷事件は植松死刑囚の優生思想が問題になっていた。
優生思想とは優秀な人間を掛け合わせれば、より優秀な人間が生まれる、という思想である。この問題は難しくて、我々は基本的に優生思想の持ち主で、また、そうでなければ社会はなりたたない。
しかし、優生思想とは所詮人間の浅知恵に過ぎぬので、これに盲目的に従えば単なる犬猫と選ぶところがなくなってしまう。
前置きが長くなった。
さて、植松死刑囚はなんと言おうとしたのか。
彼はこう言おうとしたのではないかとふと思った。
「裁判長および裁判員の皆さん。わたしを抹殺する社会は、優生思想に基づいていないと言えるのしょうか?」
あくまで、これはわたしの想像に過ぎない。
もしわたしが裁判員なりで、このように問われたらなんと答えるだろうか。
結論から言うと、わたしなら、
「その通りです。なにか問題がありますか」
と答えるだろう。
刑罰には幾つかの意味がある。
①抑止効果
②応報感情の充足
③秩序の確認
細かく分ければもっとあるだろうが、大体この三つが言われている。①はともかく、②と③はまさに優生思想から派生したものではなかろうか。
よりよい社会を作るために、社会秩序かた逸脱する者を死刑、または、社会から隔離する。しかし、植松死刑囚を社会から抹殺するのは極めて合理的である。もっとわかりやすい言葉で言えば、野放しにして欲しくない。
つまり、優生思想には、いい優生思想と、悪い優生思想があるわけで、この事件を優生思想問題にするのはミスリーディングではないのか、とふと思った。