ロビーはこんな感じ。
会場。
わたしはこの日のために予習した遠野物語の感想を以前書いた。
わたしはこの感想で以下のように書いた。
「これを読むもの、いたく不思議の感を抱くは、目の前の出来事がフィクションにあらずして、現実として立ち上るが故か。」
そうなのだ。読んでいて、普通の本ではあり得ない違和感を感じたのである。
京極氏は遠野物語を現代語に訳そうとしたときに、この違和感を覚えたという。
その原因を、氏は、「柳田は故意に視点を隠している」と書く。自然主義というのが流行ったが、目の前のものをそのまま書くのと、目の前のものを自分のフィルターを通して書くのでは大違い。
柳田と田山花袋は親交があったらしいが、柳田は田山花袋の蒲団を「あんなもの少しも自然主義ではない」と貶していたらしい。蒲団などの自分のフィルターを通した小説は、後に私小説として発展する。
しかし、視点がなければ文章は書けぬ。では、柳田は誰の視点で書いたのか。
未だに、日本の原風景とか、典型的日本人、などという、本来はないけれども、概念として存在するものがある。柳田は常民という概念を生み出し、遠野物語を常民の視点で書き上げた。
常民は存在しない。故に視点も存在しない。あの不思議な読み応えはそこから来ている。
柳田はべらぼうに文章が上手い。それはわたしも感じる。柳田の文章を真似ようとしても出来ないのだ。
京極氏は物語がどこに存在するかという問いに、言外、と答えた。物語はプロットにあるのではない。文章と文章の間、言葉になっていない部分に物語は立ち上るのである。
遠野物語はそのことをよく現した作品である。
遠野物語拾遺というのは、柳田の元に遠野物語を語った佐々木氏が、奇異な事件を様々な書き連ねて送ってきたものである。それを、柳田の弟子がちゃっちゃ、と直して出したものだ。
わたしは読んでいないので何とも言えないが、京極氏曰く「柳田の文章ではないので全然じんとこない」
そこで、京極氏は遠野物語拾遺を現代語訳にするにあたり、柳田だったらこう書いただろう、という想像の元拵えたゆえ、リトールド、ということになっている。

遠野物語拾遺retold 付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫)
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