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ジョナサン・ハイトの「社会はなぜ左と右にわかれるのか」二章

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ジョナサン・ハイトの「社会はなぜ左と右にわかれるのか」を読んでる。 - 文学・文具・文化 趣味に死す!

 

人の心は「直感、情動」と「理性的な言語的判断」という二つがあるというのは、多くの人にとって納得できる事だと思う。

 

では、この二つは、どういった関係にあるのか。本書では以下の3通りを検証する。

 

①理性こそ主人である。=プラトン

②頭と心は各々別の領域を統治する平等なパートナー。=ジェファーソン

③理性は情熱の召使い。=ヒューム

 

以下の実験を人々にする。

 

完全に殺菌したゴキブリ入りジュースを飲めるか。

魂の存在は信じないという人に対し、法的根拠はないが、死後魂を2ドルで売る契約書にサインできるか問う。

完全に避妊して、かつ成人した兄妹のセックスは許可されるべきか。

 

これらの問いに多くの人はノーと答える。なぜ、完全に殺菌してあるのにゴキブリジュースが飲めないのか。その合理的な理由を説明するのは難しい。完全に避妊した兄妹のセックスがなぜ行けないのか。

 

ノーと答えた人は最初はいろいろ理由の説明を試みるが、最終的には、「理由は上手く説明できないが、ダメだと思う」と答える。

 

ハイトは象と乗り手という喩えをつかう。

象は「情動、直感、瞬間的な自動的なプロセス」

乗り手は「理由を考え、言語に基づく思考」

 

象は何億年もかけて生命が進化の過程で手に入れた感情である。そこに言語的な思考が加わったからといって、象は乗り手に全てを明け渡した訳ではない。むしろ、乗り手は象が正しく進むための部品の一つでしかない。

 

つまり、ゴキブリ入りジュースは飲んではいけない、とわれわれは直感で判断する。たとえそのゴキブリが完全に滅菌されていたとしても、そんなことを考慮するのは無益であるし、完全という概念は言語的なものであり、実質的なものではない。

 

兄妹のセックスも同じで、それは直感的に忌避されるべきものであり、考慮する以前の問題なのである。なぜダメなのか、われわれはそれに理由を後付けをしているに過ぎない。

 

これが、いわゆる政治的、宗教的なことにも言える。

 

喩えは選択制夫婦別姓などはわたしは反対である。

夫婦同姓が我が国の歴史的なものでもなければ、世界的に見て少数であることも知っている。選択制だから、嫌な人はやらなくてもいいということも知っている。

 

故に反対である合理的な理由はない。単純に、夫婦は同姓であるべきだと信じているに過ぎない。もし、あえて理由を上げれば、うちの両親も祖父もそうしてきたのだから、それが正しい。とでも言おうか。しかし、これでは「おまえがそうすればいい」という話になり、選択制を否定する根拠にはならない。なぜ、わたしは他人にもそれを求めるのであろうか。しかも、この場合の他人は日本という限定した地域に限られている。中国人にまで同姓を求める気など微塵もない。

 

ただ、夫婦別姓論者にも同じようなことが言える。なぜ、別姓がいいのか。経済的に有利だから。なら、経済的に不利ならば同姓にするのかという問題である。別姓にしたい者は、やはり合理的な説明がなされない根拠で別姓を希望するのである。

 

段々、なぜ社会は右と左に別れるのか的な話になってきた。

 

①②③、の答えはおわかりだろうか。本書では③のヒューム型を前提に話が進むのである。

 

 

社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学