人間にも自動ブレーキ装備義務が課せられる時代が来るだろう - 文学・文具・文化 趣味に死す!
人体の自動制御システムはちょっと未来の話だったが、それより現実的な管理社会の手法として、中国ではすでに実用されている顔認証社会がある。
わたしのような場末のブログでほざくのではなく、プライバシーが制限されても顔認証社会の導入に公共の電波が前向きでちょっと焦った。
川崎殺傷事件~データのない犯人からどう児童を守るか | ニッポン放送 ラジオAM1242+FM93
さて、一般には今回のように他者を巻き込んで自殺することを拡大自殺という。わかりにくい言葉だ。普通に自爆テロと呼んだ方がいいかもしれない。
もちろん、テロとは違うという意見もあるかも知れないが、無関係な市民を狙うということは同じだ。
さらに反論があるかも知れない。テロは無関係な市民ではなく、敵国の市民を標的にしている、と。
わたしは岩崎隆一容疑者は誰でも良かったのではなく、あくまで、選択肢の中から選んであそこを襲撃したと考える。
秋葉原の加藤事件のときも、あれはテロだ、テロではない、という議論があった。日本社会に、日本の政治に不満があるならば、なぜ国会や政治家を狙わないのか。
わたしが一番腑に落ちた結論は、加藤の不満は国会や政治家を狙ったところで解消できない。不満ある社会に対してもっとも打撃を与える方法が秋葉原だったのである。
今回の岩崎容疑者も、地元の小学生ではダメだったのだろう。あくまで、私立の小学生を狙ったのだ。その意味では池田小学校と似ているかも知れない。
動機は「恵まれたやつらが気に入らない」ということ。
誰にでも平等なチャンスがある社会というのはある意味恐ろしい。チャンスを掴めない責任が全て自分にしかかってくる。一切のエクスキューズが効かないのだ。
あえて試論を展開するが、誰にでも平等なチャンスがあるということは、本当に正しいことなのだろうか。完全実力主義社会は正しいのか。実力主義社会で勝ち得た富は本当にその人個人の実力のたまものなのだろうか。
こんな差別社会はないとおもう。なぜなら、実力を持って生まれてきたやつが勝つに決まっているからである。
もちろん、完全実力主義社会の実現は相当困難だろう。必ず運は付きまとう。だが、今問題になっているのは、この社会が実力社会であり、頑張った人が、実力のある人が報われ人生の栄光を勝ち取る社会であると認識されていること、また実力主義が正しいと認識されているところに問題の本質がある。
では、実力社会とは対照的な考え方を提示してみる。
この社会は実力主義でもなんでもない。運のいいやつがいい思いをするだけの、所詮その程度の社会なのだ。
↑おそらく、こっちの方が本当は現実に近いのではないか? 現実には運やタイミングや初期手持ち量が幅をきかせているにもかかわらず、実力主義社会である、頑張った者が、実力がある者が報われ人生の栄光を勝ち取る、などという過った認識が広がっている。
頑張った者が、実力がある者が報われ人生の栄光を勝ち取る、というのは裏を返せば、頑張らない者、実力がないものは報われずに惨めな人生を送れ、という意味だ。
弱者救済、などと叫んでいるのは所詮勝ち組のエリートである。声なき声の声はやっぱり「聞こえない」のである。
どうやったら岩崎容疑者のような人間を作らないか。わたしは根が深い問題だと思う。まずは学校で良い点数を採った人間を称揚するのをやめなければならない。だが、それは国家的な弱体化を意味する。人類の発展も望めない。
結局、岩崎容疑者的存在は人類の宿痾なのであろうか。