普通、文学作品なり、何らかを鑑賞するときは、こちらが主体となり、作品を評価する。よい作品、面白い作品、下らない作品、など下す評価の中に、わからない作品、というのもたくさんある。
わからない作品に出会ったとき、イコールつまらない作品に分類してしまう。わからないのだから、面白いはずがない。ただ、自分が主体となるのをやめて作品と向き合うという、論理矛盾であるが、そういった心持ちで作品に向き合うと、面白いかも知れない。
つまり、評価されているのはわたしであって、作品に試されているのである。作品がわたしを中身のある人間であるか、興味ある人間であるか、下らない人間であるか、まるで面接官のように評価している。
その場合の作品の読み方は、ちゃんと評価されるように読む。立派な人間だと思われるように読む。そう考えると、「作品に受け入れられる」というとらえ方が出来るし、ちょっと視野や了見が広がるような気がしないだろうか。