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格差是正や子供の貧困対策が受けない理由。某野党の代表選で思ったこと。

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某野党や与党の一部でも、必死に格差是正と子供の教育の平等を訴えている。いわゆるリベラル派というものたちである。頑張れば誰でも出世できる社会を目指しているらしい。もちろん、出世などという生々しいワードは使っていない。

彼らの論理はこうだ。①親の年収に学力が比例してしまっている。②学力に年収は比例している。故に、貧乏人の子供は貧乏人。格差が連鎖する。この格差を断ち切るために、教育の機会均等、子供に対する補助を行う。

一見良さそうなことを言っている。だが、支持は広がらないのはなぜか。わたしはこの論理に違和感を感じた。その違和感は広がらない支持の理由と重なっているかも知れないので、ちょっと書いてみたい。

先程のロジックには隠れた続きがある。彼らはこう考えていると書いた。

①親の年収と子供の学力は比例する。(親の年収が高いほど子供の学力が高い)
②学力と年収は比例する。(良い大学を出たほど年収が高い)

ここまでは客観的なデータである。だが、彼らはなぜこのデータを是としないのか。彼らはこう考えている。

③年収の高さと幸福は比例する。

③のロジックがあるからこそ、①と②を変えようとしている。幸福を金銭で考え、「金銭が少ない=貧しさ」を解消しようと企てている。

政治学環境学では、貧しさと困窮は分けて考える。困窮は救うべきものであるが、貧しさは必ずしも解決するべきものではない。例えば、一日10ドル未満で生活するものは貧困層に分類されるが、必ずしも困窮しているわけではない。逆に、10ドル未満は貧困層だからと、ビクトリア湖の例のように工業化してしまえば、10ドル以上の生活にはなるが、貨幣経済に飲み込まれて、10ドル未満の自然と暮らす豊かさは失われる。現在の日本は困窮は救っている。「金銭が少ない=貧しい=変える」この発想の厚かましさに、国民は閉口しているのではないだろうか。

そしてもう一つ。こっちの方が重要な理由であると思うのだが、人々は平等を望んでいないということだ。困窮は絶対的なものであるが、貧しさは所詮相対的なものでしかない。

仮に、完全に教育の機会均等が為されたとしよう。仮に収入は能力に応じて公平に分配されるようになったとしよう。とすると、この社会では収入が人間の能力や価値とイコールというこのとになる。さらに、教育の機会は完全に均等なので、一切のエクスキューズがきかない。

そもそも、教育の機会均等は必要なのか。教育の不均等が社会の多様性を生んでいるのではなかろうか。また、不均等があるからこそ、様々な道で開花する人々がいるし、本当に能力もやる気もないひとは、不均等があるからこそ救われるのではないだろうか。

さらに、僻み半分で言うが、彼らが教育の機会均等を唱えると、エリート意識を振りかざしているようにしか思えないのだ。教育を受けることが人間として価値のあること。頑張る人間が偉い。こう言っているように思えてならない。教育を受けない人間は劣っている。頑張らない人間は駄目人間。こう聞こえるのだ。

というと、「勉強したいのに出来ない人がいる」という反論がくるだろう。しかし、これも考え物で、「あなたは勉強したいですか? したくないですか?」と問えば、この学力社会、「したいです」と答えるのが大半だろう。だから、学力社会も肯定していることになる。

わたしは今の制度で、勉強したい人は十分勉強できると思うのだが、甘いのだろうか? 奨学金制度を拡充して、高校以下の大学に蜜を吸わせる必要があるのだろうか? そんなことをせずに、それぞれがそれぞれの質を伸ばせる社会、また、伸ばさなくても幸せに暮らせる社会、それを作る方が重要なのではなかろうか。