ラジオ版学問のススメ 浅田次郎 が語る、知られざる戦争の歴史。 - YouTube
浅田次郎は好きな作家である。
この中で興味深いことを言っていた。
最近の人々が不幸を感じるのは足るを知らないからである、と。
こんな満ち足りた世の中で年間三万人も自殺するのはおかしい、と。
現在の不幸は手を伸ばせば幸福が届きそうな場所にあるにも関わらず、届かないのが不幸の原因ではないかと分析している。
平等のパラドクスという理論があり、平等に近づけば近づくほど、ちょっとした格差が気になり、不平等感が強まるというやつ。
昔の身分格差などは超絶な壁が立ちはだかっていたので、不平等感はむしろ薄かったという。
しかし、自分はこう考えたのだ。物質に満ちあふれ、不平等感に満ちあふれるほど平等に近づき、だれでも幸福になれそうな気がして、死は日常から隔離され(浅田さんは「死というものはなにか茫洋と地平を漂い距離感がはかれない」と綺麗な表現をしている。さすが)、足を知ることが出来ない社会、というのは、幸福な社会である、と。
逆を考えると面白い。絶対超えられない身分格差が存在し、乏しい物質を偶に得られる幸運に満足して、隣に死があるにも関わらず今日を生きている喜びを感じる社会、これは幸福か? われわれはそんな社会を求めるか?
求めない。例え精神的に常に不満を抱えていようとも、物質の豊かさを求め、些細な不平等に目くじらを立てる社会を我々は求めてきた。そして、それは実際に幸福な社会である。
つまり、そのような幸福な社会の中で洗濯される自殺は贅沢の延長である、というのを、死に神の死に頃の春と秋で書きたかったのだ。それが上手く表現できているかどうかはわからないけれども。
なんか宣伝になってしまった。