小説論の一つとして以下のようなものがある。
現代社会は娯楽が溢れている。テレビ、映画、ゲーム、漫画、などなど。これらに対抗するには、これらを凌駕するような極めて面白い作品でなければ、消費者が敢えて小説に時間と金を使うことはない。
娯楽として小説が選ばれる難しさを語っている。一理あるが、必ずしもそうではないと思う経験をした。
自分は最近ツムツムにはまっている。一車両中10人は必ずやっているあの国民的ゲームである。
ツムツムは得点を競わすことにより、ラインの友人たちとの競争心を滾らせ、各ツム等のレベル上げ、日々のミッションという形で達成感を味合わせ、コレクションで収集心を刺激し、イベントは昂揚を焚き付け、ボックスに到っては射倖心を煽る。まさに、総合的、相関的に欲望を誘発していくシステムとなっている。
脱帽である。気がつくとツムツムをやっている。特に入稿が終わってからは、隙間時間ではなく、まとまった時間にツムツムをやり続けてしまう。ハートがなくなるか、目が痛くなるまで止まらないのである。
本題である。果たして、娯楽としてこれ以上の小説を書けるだろうか? 書けないだろう。否、そもそも、娯楽の方向性が全く違うのである。小説を、ゲームやテレビや映画とひとくくりにすることにそもそもの過ちがあると気づいた。
というのも、自分はツムツムに長時間費やしたあと、虚しさに襲われるのである。ツムツムは実に面白が、実に下らないゲームである。人格や教養の向上に一切寄与しない。有限の人生を実に下らない時間に費やしてしまったという悔恨が、ツムツムを長時間やったあとに襲ってくるのである。
だから、自分は最近大江健三郎を読み始めた。大江健三郎の小説は内容はよく分からないが、読んでいると教養を高めているような気になれる。少なくとも、無駄な時間を過ごしたとは思わない。戦後の文学史を味わっている気分にはなれる。
小説が映画やテレビやゲームと真っ向から対決することに意味はない。小説は小説しかできないことをやればいいのだ。将棋とスキー、どちらが面白いか、などという問いは意味をなさないのである。