言わずと知れた名作である。
私は読む前、所詮単なる反戦反日左翼小説だろうと高をくくり、速読でさくっと読み終えてやろうと思っていたが
が、
読み進めて速読などは到底出来なくなった。一文字一文字、噛みしめて読み、挙げ句の果てに重松がたどった地図までこしらえてしまった。
この地図は、主人公の重松が8月6日にたどった道順である。横川で被爆し、炎の海になっている市街を迂回する形で、自宅がある千田町へ行き、さらに宇品に仕事で行き、炎が収まった広島市街を抜けて会社がある古市に行く。
わたしは重松の気分になり広島の町を徘徊した。
こんな読書体験はまずない。一ページ一ページをこれほど貴重に読んだことはないのではなかろうか。
重松日記が後日刊行されている。
黒い雨は当初、姪の結婚というタイトルで連載されていたらしい、しかし、重松の日記がすごくて、姪の結婚などはどっかに吹っ飛んでしまった。
だから、小説としては失敗作なのだろう。重松が原爆の1年後に、日記を清書するというスタイルで書かれている。小説に日記が引用されるのではなく、日記の隙間に小説が顔を覗かせる。しかも、1年後に清書しているはずなのに、2年後の歯が抜ける報告まで日記の中でされている。破綻しているのだ。だが、そんなことはどうでもいいのだ。とにかく、重松の日記がすごい。
わたしは重松日記を読んでいないのでどこまでが重松の日記で、どこからが井伏の創作かは分からないけれど、この作品は非常に素晴らしい作品であることは間違いない。
愚かなるわたしのように、反戦反日左翼小説などと忌避しないで、一読を勧めるものなり。