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予言が外れるとき コロナ騒動と認知的不協和

昨日の小林よしのり氏のブログで、「日本人は1億総カルト信者」と書かれている。

 

データ無視の感染症専門家を軽蔑する

 

どういうことかというと、イタリアでコロナの嵐が吹き荒れていた頃は、

 

「2週間後の東京は今のイタリアになる!」

と騒ぎ、

 

ニューヨークにコロナの津波が押し寄せていた頃は、

 

「2週間後の東京は今のニューヨークになる!」

 

ノストラダムスも真っ青な予言していた。

 

上に下にの大騒ぎをして、結局イタリアにもニューヨークにもならなかった。「よかったよかった」と胸をなで下ろして良いはずなのに、そうはならず、

 

「これから第二波が来る! 変異したウイルスが入ってくる! PCR検査を全国民が受けるべき!」

 

などと、コロナ怖い、コロナ来るぞ、と恐れおののいている。この状況がカルト信者そっくりであると氏は言うのである。

 

わたしがよく参考にする書物に「予言が外れるとき」というものがある。

 

 

 

認知的不協和、とか認知的整合性理論、などと呼ばれる分野である。

 

あるカルト集団が「世界が洪水で終わる」と予言したにも関わらず洪水が来なかった。そのときのカルト集団の様子を観察したのがこの書物である。

 

普通、予言が外れたら、教祖は馬鹿にされ、教団は解体すると思われる。しかし、現実はそうならず、信者はますます教義にのめり込む。なぜそうなるのか。

 

認知=世界の終わり。

現実=世界の継続。

 

ここに認知と現実の隔たりがある。人間とは不思議なもので、認知が現実に優先するのである。つまり、認知が誤っていた、とはならず、現実がおかしい、と受け止める。諸賢の周りでもいると思う。決して現実を受け入れない御仁が。

 

本書の言葉ではこう述べられている。

 

不協和は不快を生み出し、それに応じて、不協和を低減させたり除去させようとする圧力を生じるであろう。したがって不協和を低減させようとする試みを行うことは、逆に不協和が存在するということを観察可能な形で示すことになる。

 

本朝のコロナの例で言えば、

 

「コロナは怖い。コロナで壊滅するはずなのに、今の日本は全然大したことないぞ。そうだ、今は大したことないが、2週間後はイタリアみたいな状況にきっとなる!」

「2週間後のイタリアだ!」

外れた……、次を探せ!

「2週間後のニューヨークだ!」

外れた……、おかしい……、なにか、認知に合致する情報があるはずだ! 頑張って探せ!

「第二派が来る!」

「イタリアのウイルスは型が違って、新型がこれから日本に入ってくる!」

PCR検査を増やせ!」

「自粛継続&強制力をもたせた法制化!」

「パチンコ許すまじ!」

 

となってしまっている。では、なぜそうなるのか。認知を変えられない理由は幾つかあるが、認知を曲げないある信者はインタビューにこう答えている。

 

「私は、洪水が21日に来ることを信じないわけには行きません。なぜなら、私は自分のお金をほとんど使ってしまったからです。私は仕事をやめました。事務計算機学校もやめました。それに、アパートは1ヶ月に百ドルかかります。私は信じなければならないのです」

 

マスコミにしても、最初に危険を煽りまくって報道してしまったので、いまさら、「日本は大丈夫です」とは言えない。彼らにしてみれば、最初に報道したように真の危機が来てくれないと「嘘つき」になってしまうのだ。信じないわけには行かない。

 

同調圧力ではなく、コロナ怖いと信じて、本当の意味で自粛して、旅行を諦めた人、イベントを中止した人、店舗営業をやめた人、こういう人たちにしてみても、危機が来てくれないと、何のために自分が犠牲になったのかわからない。自分の信じたことが間違いであると認めるわけにはいかない。緊急事態宣言を国民が求めた本質もここなのではないだろうか。

 

だから、このコロナ騒動は終わらない。一度恐怖報道をしたマスコミは、恐怖の種を永遠に探し続ける。現実とは関係のない認知の世界なのだ。下火にはなるだろうが、コロナ怖いと信じた心は種火となって残り、またどこかのタイミングで燃えさかることだろう。