多和田葉子に、
「命よりも大切な者がある。特攻隊はそれを表現した」
と絡んだオヤジがいたらしい。
もちろん、多和田に撃退された。
オヤジは多和田の作品を読んでいなかったのだろう。
多和田葉子は言う。
日本語の「命」というのはじつに独特な意味合いをもつ。
「命」には英語のlifeやドイツ語のlebenといった意味はない。
「命」は単に息をしている、という意味しかない。
わたしはこの考察を非常に興味深く聞いた。
つまり、「命」と「人生」は別物なのではなかろうか。
日本は、命、という言葉があるがために、本来、「人生至上主義」と訳すべき概念を、「人命至上主義」と誤訳してしまったのではなかろうか。
わたしは多和田女史の大ファンであるが、特攻隊についてオヤジの感覚に近い。というのも、命を至上にしてしまうと、そこで、思考が終了してしまうからである。思考が終了してしまえば、文学も哲学もなくなる。
ドイツが戦後フランスに思想界の主導権を握られてしまったのは、ナチスを絶対悪として思考停止に陥ってしまったからだ、という議論にわたしは首肯する。絶対なるもの、至上なるものを想定してしまったら、思考はその必要性を失ってしまうではないか。
多和田女史の新作を今から楽しみにしている。