小林秀雄の有名な論文である。若干27歳で書いている。
有名な論文であるが20pほどの短いものだ。
内容は批評について批評するという、いわばメタ批評のような感じ。意匠とは、○○主義とかそういう一つの知識形態で、同じものを批評するにも、バックボーンになる知識形態でその裁き方が異なる。
意匠というよりも、思想的尺度、と言い換えた法がわかりやすいかも知れない。人々は好き嫌い、同様に、思想的尺度でもって作品に審判を下す。
それがいいか悪いかではなく、嗜好が生き生きしている、尺度が溌剌としているか、それが問題だという。
そして、言葉というのは人を指嗾するものだという。作品を言葉で語れば、劣悪に指嗾することも出来るし、崇高に指嗾することも出来る。それが言葉の魔術である。
この時代はマルクス主義が闊歩していた。ゆえに、マルクス主義、唯物史観でもって芸術を判断することに否を唱えているのである。これはかなり勇気のいることではなかっただろうか。当時の知識人の中でマルクス主義は一種の聖典であり宗教的な信仰があった。
しかし、そういう一つのマルクス主義にしても、キリスト教にしても、一つのバックボーンを持つということは、思索にとって幸福な時代だったとも言える。小林が引用しているアルマン・リボオの言葉ではないが、
「人体の内部感覚というもは、明瞭には、局部麻酔によって逆説的に知り得るのみだ」
ということである。
非常に短い批評であるが、随所随所に鋭い考察にともなう至言が詰まっていて、読み応え満天である。20pしかないが、200ページくらいの内容があると思われる。
最後に、大衆小説について書いているのも面白い。
簡単に略すと、小林は「今日のごとく直接な生理的娯楽の充満する時代に文字などを読んで楽しむなど不可解。しかし、大衆文芸がこれほど繁栄するというのは、人間が文学的錯覚から離れられないかを証明している」という。