原題は「denial」である。否定という意味もあるが、たぶんアウシュビッツの存在を「抹殺」するという意味合いでdenialというタイトルなのだと思う。
だから、邦題は肯定というのはちょっと違和感がある。っていうか、あんまり考えないで付けたとしか思えない。とりあえず原題を直訳して「否定」にしたが、なんかぱっとしないので、「と肯定」を付け加えた、みたいな。
史実を元にした映画である。
わたしはアウシュビッツ&ヒトラーは絶対悪でありその歴史的な真実に一切関係なく断罪される物だとばかりおもっていた。だから、2000年にイギリスでこういう裁判があったということにまず驚いた。
さらに、アウシュビッツを否定するアーヴィングは早川書房から日本語訳の小説が出ているくらい立派な小説家なのだ。
歴史学者たちはホロコーストはヒトラーの命令だと言うが、ヒトラーの命令書は存在しない。だから、ヒトラーがいつ、どこで、だれに、どのようにして、ユダヤ人の虐殺を命令したかわからない。ゆえに、ヒトラーはユダヤ人虐殺を命令していない。という理屈である。
この映画はユダヤ人主人公の視点から描かれているので仕方が無いかも知れないが、アーヴィングがかなり劣悪な人間として描かれている。しかし、わたしはこの映画的に、アーヴィングを劣悪に描きすぎるのは失敗だったのではないかと考える。
というのも、アーヴィングがあまりにもいかがわしく醜悪に描かれているので、この映画の一番の見所であるはずの判決の瞬間に、緊張感が演出できないのである。
観客はリップシュタットの勝利を確信してしまっているのである。これは史実でもそうなのだから、余計に敵を強敵に描くべきではなかったのではないだろうか。
ただ、わたしにとって衝撃的だったのは、あることが前提というか、あるに決まっていると信じていたアウシュビッツを「ない」と主張する一団が存在することだった。
実際にガス室などの写真は残ってなく、アーヴィングの「ない」という主張にも頷けるところが多いのだ。
リップシュタットたちは圧倒的な証拠を突きつけてアウシュビッツの存在を証明するのだと思いきや、むしろ感情的にアウシュビッツの存在を主張するだけなのだ。そして、イギリスのユダヤの指導者達は「裁判などせずに示談にしろ」という。
この映画を観る前はわたしはアウシュビッツの存在を疑わなかった、これを観て、「本当はなかったのかも知れない」という疑念が湧いた。もちろん、そんなことを主張するつもりはない。
オーストリアなどではアウシュビッツの存在を否定することは違法であり逮捕されてしまう。
われわれは逆の立場で南京や慰安婦問題を抱えている。なかったことを証明し、それを感情的に納得させることは至難を極めるのではなかろうかと、この映画を観て思った。